木曽山の林業労働
木曽山での林業労働者は、作業によって、「杣」「日用」に大別される。杣は産地での伐木・造材専業夫であるが、江戸中期の頃から「小杣」を分岐し、小杣はもっぱら造材を受持つようになった。
運材専業夫の日用ももとは杣の兼業であったが、木材の彩運量が増すにつれて杣から日用が分化し、日用は木造りのすんだ材木の谷出し(山落し)から、小谷狩(木曽川本流までの運材)を経て木曽川本流を錦織綱場まで流送する「大川狩」までを担当するようになり、その頃から杣・日用共に、一人の組頭に統率される組織労働者としてそれぞれの作業に従った。木曽山で稼働する杣・日用の多くは王滝村を中心とする山間部の住人であったが杣組の中には裏木曽三カ村、特に付知村の杣衆の活動が目立っていた。
次に杣・日用の就労時間であるが、初期の濫伐最盛期には林業技術者が甚だしく不足していたため、杣は先進林業地の紀伊(和歌山県)・近江(滋賀県)方面から、運材夫は美濃(岐阜県)・越中(富山県)筋から無制限に雇い入れ、戦国期さながらの濫採活動を展開したので、その当時は杣・日用共に季節に関係なく、年間を通じて採運作業に従事した。それが寛文改革前後の頃から、木材の採運秩序が整うに従って杣・日用の分化が進み、両者はおおむね就労期間を異にするようになった。即ち杣は初夏の八十八夜(五月二日前後)に山入りして、元小屋以下の山小屋設営に着手し、施設地付近での宿泊施設が完成してから元伐り作業にかかり、秋分(九月二十二日前後)の頃にその年の伐木・造材作業を完了するのと通例とした。尤もその間、老練な日用によって各種の運材施設(後説)が架造され、その施設を利用しての山出し作業は手順よく行われるのであるが、最も多人数の日用を動員しての運材作業は、杣が元伐り作業を終えて下山した時期に始まる「小谷狩」からである。
おおむね渇水期の冬に施行されこの小谷狩は、木曽川本流の「大川狩」と共に多くの労働力を必要としたが、木曽川の川狩作業が冬季に定着するようになるのも寛文年間以降で、それ以前の採材最盛期には季節に関係なく、増水期の「夏川狩」も強行された。しかし出水期に行う川狩は、川下げ過程にある大量の木材を流失する危険が多かったので、十七世紀の半ばを過ぎる頃からは、流水量の安定する冬季だけ行われるようになり、そのために伐木作業は夏秋の交に施工されることにもなったのである。
転載:
木曽式伐木運材図会
監修・解説 所 三男
財団法人 林野弘済会長野支部