尾張領久田見と苗木領九カ村の山論
「山論」という言葉を辞書で調べると「江戸時代、入会林野の利害関係をめぐる、いくつかの村間の論争・紛議のこと。最終的には領主(または幕府)が裁決した。やまろん」となっている。
古くの時代には、村や藩ごとの境界は、不明確きわまりない状況であった。中でも山林地内の境界は、地形が複雑であったり、人が容易に近づけない急峻な谷間があったり、展望のきかない山また山の中であったため、曖昧であった。
「山論」を簡単に言えば、昔の村や藩の領地(境界)紛争である。福地と久田見(苗木藩と尾張藩)の境界紛争は、江戸時代の一六〇〇年も半ばころから、たびたび起こっていた。村の実力者や、村役による調停により、不満がありながらも口争いや小競り合い程度で、沈静化していた。
政権基盤が安定した江戸幕府は、元禄三(一六九〇)年、徹底した「検地」を実施した。そのころ、各藩の人たちは、村に定住するようになり、領(藩)主の統治が厳格化してきた。村を一つの単位とした、年貢制度(年貢が一村の全体責任で賦課することを中心とした)の確立は、村人にとって死活問題であった。一定の面積で最大の収量を上げ、年貢を納めるためには、田を肥やし、手入れを行きとどける必要があった。中でも、化学肥料がない時代、田を肥やすには、山野の木草(「刈干し」とも言った)が唯一の肥料となっていた。そのため木草の確保は、即収量の多寡を決定づけた。大量の木草を確保するには、相応の原野・山林面積を必要としたが、それまで自由に採草できた土地は、次第に自領の占有権を主張するようになり、紛争の種になってきた。
福地と久田見の決定的な大山論は、文化十(一八一三)年犬地(現白川町)の杣が、村領内の倒木のケヤキを切り出していたのを、久田見の山見廻り役に見られ、大喧嘩となったのが発端である。この、ケヤキ事件があってからは、犬地村・福地村対、久田見村の山論が顕在化してきた。激怒した村人たちは、鎌・くわ・ナタ・竹槍などを持ち出すまでの争いとなり、多くのけが人も出るまでになった。
こうしたなか、久田見村は、江戸の寺社奉行所へ提訴した。文政二(一八一九)年七月のことであった。訴えられたのは、犬地・福地の二カ村と二カ村を支援する上田・飯地・中野方・切井・黒川・赤河・蛭川の七カ村であった。
山論の該当地であった福地・犬地の他に、なぜ七カ村が訴えられたかというと、久田見側が入会地と主張する、福地村の長曽川に架かる「長曽橋」(「長瀬橋」ともいう)に問題があった。この橋は、江戸への交通、年貢米の移送などをするために大切な橋で、福地の橋というよりも苗木藩の橋として位置づけられていた。このため、七カ村は、橋の保守点検や洪水で橋が流された際、再度、架橋するなどの賦役についていた。このことから、久田見は、福地・犬地と同様に紛争に対抗する同類の村と位置づけていたからである。
ケヤキ事件から提訴に至るまでに六年もたっているのは、その間に、地元で解決策を模索していたからである。何度も話し合いがされたものの、小競り合いは終わることがなく、ラチがあかないとして、久田見側が一方的に提訴したのである。その裏には、あくまで久田見の長年の主張を押し通そうとする考えと、久田見村は大藩の尾張藩(六〇万石)の配下であり、苗木藩は一万五百石程度の小藩であったことから、久田見村は苗木藩を侮り、尾張藩の権威力を見せつけようとする思惑があったとみられる。
訴えを受けた江戸の寺社奉行所は、裁許のための当事者間の聞き取りをしたが、双方譲らず、なかなか結論が出せない状態であった。このことは江戸幕府の幕閣のあいだでも話題になり、尾張藩の後ろ楯を気にしながらの問題解決は、四年を要した。最終的には、笠松郡代(幕府の直轄地を支配する幕府の代官)の説得で、福地村の主張する境界が、文政六(一八二三)年に画定した。長期にわたる論争で、双方とも紛争疲れがあり、それが最終的な結論を引き出したとも言われている。
決着までの四年間、双方の対応はすこぶる難儀であった。例えば、江戸で行われた事情聴取には、庄屋を始め、藩の役人などが江戸までたびたび出頭しなければならない。それに要する往復の日数と江戸滞在費用は、相当額にあがったであろう。また、決着までに江戸からの役人が出張し、四年間で四回に及ぶ現地調査をした。現地調査では、村人の出役を得て、食事接待、現地案内、宿舎の手配などをしたが、三回目の文政六(一八二三)年三月の現地調査は、神社奉行所の調査者二十四人が来村した。調査期間は実に七〇日間に及んだ。このときの出役人足は、苗木藩だけで、五千人を超えたという。久田見側でも同程度の人足が動員されたと思われる。
山論は、全国のあちこちで発生していたが、尾張藩領久田見村と苗木藩領九カ村の山論は、江戸幕府の幕閣の老中のあいだでも話題になっていたという。
尾張藩久田見村と苗木藩犬地村・福地村の紛争の場所は、別図のとおりである。結論的には、福地・犬地村の主張通りの境界となった。すなわち、久田見村が自領と主張した茶碗、進退、清津、乱橋、押上、お追分、樽洞、伽藍谷、高木、伽藍、油草の西半分、小谷の西半分は、福地村の領地となった。
[2019/09/09 投稿] category: 八百津の歴史, 山論