水運と黒瀬街道の関わり

 この地方がいつから黒瀬湊、黒瀬街道を中心に発展を遂げて行ったか。苗木藩の南方中通11ヶ村(中野方村、毛呂窪村、姫栗村、河合村、飯地村、峰下立村、福地村、切井村、赤河村、犬地村、上田村)については記録のある限りでは次のとおりである。

 天正11年(1583年)5月、兼山城主森武蔵守長可は豊臣秀吉の命により苗木城の遠山友忠とその子息友政を攻めた。この時の兼山から苗木に向かっての進軍方法は、森軍の本隊は中山道を進み、別動隊は兼山で木曽川を渡り、細目村から一部久田見村(稲葉方通領)を通り、福地村から一部飯地の枝郷塩見を通過、中野方村から蛭川村を経て高山村から日比野を経て、苗木城下への道程を経て進軍した。

 何時の時代でも軍隊が進軍すれば、その後方にそれを支援する人々がついてまわる。後方の支援をする民軍に可成の農民がおり、商業に携わる人たちも居たはずだ。その後、森氏が苗木城を占領し、森の軍勢が18年間苗木城と遠山一族を支配する間に、そういった人たちから多くの兼山方面(森氏の地元)の文化がこの地方に流れ込んできた。

 この事がこの地方の開発と発展に寄与した。この地方(苗木藩南方中通り11ヶ村)の文化や因習などは、相当数が兼山を中心とする中濃方面から入ってきた可能性が高いと思われる。

 兼山方面とは断定できないが、現在テレビやラジオを視聴していると、この辺の言葉に似た訛りが時折聞こえてくることがある。それは郡上方面の言葉である。この事は、その昔郡上方面を治めていた東氏の家来で山田姓の某が一族一派を引き連れて、久田見村から塩見郷へ来て住み着いて多くの後裔をこの地方に残したことでも分かるように、その名残が訛りとなって残っているものと思われる。

 また、切井、赤河、犬地、上田などは苗木藩以前は赤河に拠点を置いた土豪纐纈一族が広くこの地方を治めていたのが、郡上の東氏を滅した遠藤慶隆を統領とする遠藤一派が纐纈一族を追放し、可成の支配になるまで間遠藤が支配していた事からも郡上方面との繋がりが深かったのではないかと推察される。中野方には今でも郡上に檀那寺を持つ檀徒が40軒くらいあるが、それはそういった歴史的背景の影響ではないか。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

[2019/09/09 投稿]