「栗金が八百津発祥の地」説に挑む02
2.あっ、そうか・・砂糖か?
さて、ここではっきりさせておきたい。栗金飩は栗を栽培しまたは山に自生する栗を利用した江戸時代以前から各家庭で地域のお菓子として食されたものをいう。
しかし本テーマであるどちらが早いか?については商品として販売された時期を検討するものである。
友人の和菓子屋の主人にいろいろ聞いているうちに甘味の素は飴でも砂糖でも可能であるが、商品としての製造は砂糖(この点は各店でノウハウ)である。つまり砂糖は
どちらが早い時期に手に入りやすかったかが製造の側面から重要なポイントとなる。
そこで簡単に近世の砂糖の歴史を紐解くと江戸時代にも黒砂糖、和三盆、三温糖などの国内製造品があったものの、消費の2/3は滋養強壮剤として薬品扱いの立場である。(精糖工業会編)一方、明治維新以後も継続する不平等条約により安価、
高品位の輸入品が急増する。消費も欧米化した食品が増え、急速に国内製造は消滅していく。
上智大学論文に国民一人当たりの砂糖消費量推移のグラフがある。
それによれば、推計1874年(明治7年)を1として1890年(明治23年)には3倍となっている。
この年の量は順増の中で減少する日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年
)、第一次大戦(1914年)期とほぼ同量である。
日清戦争勝利で台湾を中心とする国内生産増を加味すれば、明治23年前後の日本人の輸入砂糖消費は一つのピーク期と捉えてもよいと考える。
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、東海道本線全線開通など明治政府がやっと安定期を迎える時期に重なる。
この年を中心とする10年がこの地方の餡餅屋から和菓子屋へ脱皮した時期になるのではないかと推察した。ではこの時期と特定し、栗金製造原料の入手しやすさの観点からどちらが発祥に近いか?以降、歴史的考察を展開していく。