やおつの「ぶんたこ」について
「ぶんたこ」って名称絶滅危惧種?
八百津町本町通りには三軒の立派な和菓子屋さんがあります。4 月の八百津祭りには地元の山のヨモギをふんだんに使った「ぶんたこ」と言う薫り高い春の息吹を感じさせる和菓子が並びます。しかし転勤族だった私は「ぶんたこ」という名のお菓子をほかの地域で聞いたことがありません。
一般には草餅ないしはよもぎ餅と言われます。八百津町でも「ぶんたこ」を知らない世代が増えてきました。絶滅危惧名称かもしれないと思い調査しました。
レファレンス協同データベースにある「ぶんたこ」の項目に各務原市立図書館提供資料があります。それには『岐阜県方言辞典』および金沢市図書館、京都女子大学資料で「ぶんたこ」の由来および美濃方言であると記述してあります。ほんとにそうかと考え、岐阜県図書館にて岐阜方言の詳細を調査しました。
結果として「ぶんたこ」は絶滅危惧の美濃方言の名称であると推察できました。続いて文献に限らず、実際にはどうかと各務原市立図書館調査資料に従い、各務原市の河野西入坊辺りで住民の方などにヒヤリングした結果、確かにご近所の古老は現物がなくとも草餅を「ぶんたこ」という呼称に反応し、近隣の和菓子店の草餅の呼称も「ぶんたこ」でした。文献では蓮如上人に好物ハクタクを献上したので特に中興の祖とするお東さんつまり浄土真宗大谷派の寺院では蓮如さまなどの名称の祭礼で好物の「ぶんたこ」餅を配る習慣があったこと、また各務原の古老の話では、今は規模が縮小しているが、昔は各務原市、同川島、笠松、羽島などにお東さんの寺院が多く、そこでは蓮如さまと言う祭礼が執り行われ、「ぶんたこ」を配って食べる風習があったことがわかりました。岐阜方言のさらなる市町村ごとの方言の冊子やネットでの情報では、「ぶんたこ」は草餅以外に団子だったり、柏餅だったりします。指し示す餅の種類は違っても各務原市以外に岐阜市、羽島市、関市、白川町、坂祝町、美濃加茂市、可児市、御嵩町、川辺町の一部で使い、多治見など東濃では方言の記述がみられないことがわかりました。草餅を「ぶんたこ」と未だに言う範囲はある限定された地区だと推測できました。しかも中濃地区および岐阜市を含む木曽川筋に残っていることが分かりました。一方でその地域でも「ぶんたこ」が通じる人は減少しており、名称絶滅危惧種に該当するようでした。
「ぶんたこ」ってなに?
平安時代に鑑真和上に象徴されるように唐との交易が盛んになると仏教文化とともにハクタクなどの饂飩に似た菓子が伝わります。穀物の粉を餅状にし、延ばして焼いたり、揚げたりします。そのうち餡を包んだりしたようです。後年、浄土真宗第 8 代世宗主 蓮如上人(1415~1499)は応仁の乱を含む室町時代におい
て浄土真宗の中興の祖として活躍します。蓮如はハクタクが好物といわれ、親鸞を開祖とする西本願寺系に対して親鸞とともに中興の祖の蓮如をお祀りすることの多い東本願寺系の寺々では「蓮如さま」という祭礼が執り行われることが多々あるようです。その際に好物のハクタクをお供えし、供養し、それを下げて門徒で分けたようです。しかし文献ではこのハクタクが美濃方言として「ぶんたこ」となったかについては不明となっています。「ぶんたこ」には諸説あり、文化凧説などもありますが、文化凧自体の存在がありません。尾張藩学者恩田は餅を尾張藩ではブンタクというはハクタクが転じたと記録しております。たしかにタクはタコを言い換えられます。後の記述は推察であります。日本の饂飩系食べ物で小麦粉を練ったものをスイトンと呼びますが、九州を中心に瀬戸内まではそのスイトンを「だご」「だんご」と呼びます。一方、岐阜県で羽島市竹鼻はみたらし団子に味噌を使ったみそぎ団子を「味噌付けぶんたこ」と呼びます。さらに「日本のまん真ん中岐阜県方言地図第三集」には美濃加茂市(海津地区もいう)辺りで分け前のことをブンと表現する資料があります。蓮如さまで下げた菓子餅を門徒に分けた分け前をブン、団子がダゴ、タコになるのではないかな~そうするとハクタクは「ぶんたこ」へ名称が変化してきたと推測できるように考えました。いずれにせよ、「ぶんたこ」はこの地域に根付いた独特の和菓子の名称であります。文献には八百津町が真っ先に出てきますが、関市、美濃加茂市でも餡入りよもぎ餅を指します。しかし、岐阜市の長良川北部では柏餅に転じているようです。
「ぶんたこ」はどのように八百津へ来たの?
各務原の河野西入坊のような浄土真宗のお寺は八百津町には二寺しかありません。和菓子屋のある地区のお寺は浄土宗と臨済宗です。しかも残っている和菓子屋さんはすべて臨済宗門徒です。お寺だけでは説明出来ません。仮説としてお話します。八百津町の旧八百津は明治になるまでは細目村といい、尾張藩の重要な舟運の一大基地であり、河川運送と陸送の接点で問屋、家内制手工業を含めて巨大は経済圏を形成しておりました。記録によれば 18 世紀中半では細目村に人口は 3,500 人程度を想定され、単純に日本総人口が現在の 1/4 程度であり、今の感覚では 14,000 人が生活していたと推定させる賑わいでした。
国内では江戸時代から砂糖は製造されていましたし、輸入もされておりましたが当時は薬としてまたは、高価な菓子として存在し、一般庶民が口にできるようになるのは明治を待たねばならなかったようです。さて細目村の黒瀬湊が急速に発展するのは尾張藩が錦織湊に代官所を設けてそのために近隣に尾張藩として河
川運送基地が必要であり、1670 年くらい(だんじりの始まりのこのころ)から次第に規模が拡大したものと思われます。その繁栄はダム建設が本格化する大正中期(1915 年くらい)まで続きます。旧苗木藩各地を中心に往復陸路運送基地機能と木曽川下流域、犬山近隣の振興用水、下流で接近する長良川、揖斐川も
利用して名古屋を含めた各地への往復河川舟運基地機能を有す木曽川最奥部湊を形成します。経済ダイナミックが発揮され、必然として一次加工業が発展し、「ぶんたこ」を例にすればその舟運を利用し、砂糖が比較的安定的に安価で素早く利用できた点、木曽川支流の荒川で水車を利用した製粉業ができた点、さらに八百津町の高原地帯のよもぎを調達できるという最適立地が「ぶんたこ」を生む産業環境にあったのです。この環境下で「ぶんたこ」のような和菓子に限らず、乾麺・醤油・酒・酢などの二次加工業も八百津には勃興しました。これで産業に必要な人・物・金の仮説は成り立ちます。しかし、消費ニーズに合わなければ
「ぶんたこ」は定着しません。ある資料では「九州の産炭地に銘菓あり」と言われております。厳しい労働に依る甘味への欲求、危険への高額な報酬と宵越しは持たない散財性質、経済活況に依る交流の手土産需要が要因と考えられております。まさに黒瀬湊は同じような産業環境の舟運船頭、川筋人足が居住しており
ました。先に述べましたが各務原の河野西入坊のすぐ南は川島の木曽川堤防道路であります。「ぶんたこ」はこの辺りで生まれ、その名称とともに舟運船頭、川筋人足が最初に運んできたのではないかと推察します。昔は八百津では数十件の和菓子屋・餅屋があったと聞きます。盛んに「ぶんたこ」を作り、需要にこたえたことでしょう。和菓子屋さんも減少し、人々も流出し遅きに失した感がありますが、このような歴史と伝統の「ぶんたこ」という絶滅危惧名称を私は残したいと思います。立派な栗きんとん(くりきん)の和菓子屋さんばかりですが春には「ぶんたこ」という絶滅危惧名称で製造販売されており、私は誇りに思います。
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