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「栗金が八百津発祥の地」説に挑む04

4. では、商品の伝播はどのように行われたのだろう?

明治20年前後において家内制手工業とはいえ、工業化された栗金という一定品質の商品を提供し続けることは現在の工業製品も同じである。つまり栗という水分、糖度、種別特性などの不安定な農産物原料を用い、特性に対応して蒸す、練る、大量に入手可能となった砂糖を添加するなどの工程で一定品質の栗金を提供する工業製品なのである。工業製品は販売され、顧客満足を得て拡販される仕組みである。ポイントはネット通販であれ、その情報の伝播ある。この工業製品「栗金」がどちらからどのように・・その情報の伝播方法から八百津発祥を合理的仮説に組み立ててみる。 当時の旧八百津町と旧中津町(明治30~昭和26年)の人口比を資料(美濃国加茂郡誌・角川日本地名大辞典 より)から計算し推定するとどちらも住民数は約6,000人でほぼ同じであった。少々乱暴であるが紙面の関係上、地元消費量は同等と考えたい。では工業製品栗金の高顧客満足度情報の伝播か行われたのだろうか。当時の伝播の方法は往来による人的交流であろう。八百津と中津川・恵那を結ぶルートとして3.で書いた物流・往来の黒瀬街道と大正初期からの数か所のダム建設ですっかり人工湖となり、忘れ去られつつある木曽川に沿った川狩道である。錦織湊より上流はダム建設以前の明治期までは切り裂かれたような渓谷で木材の管流しによる大川狩りが行われて来た。河床勾配が緩くなり、可航ができる八百津の錦織湊で筏に組む。例として1本の伐材が坂下(現中津川市)から錦織湊まで200日程度を要し、伐木全部を完了するには13か月程度を要した。(中津川アーカイブス・ふるさと坂下等参照)この作業員たちは現在の中津川・恵那市近隣に存在し、チームを組み専業化していたようで常に坂下・付知辺りから伐材とともに錦織湊まで下ってくる。つまり川狩作業員の道があった。川沿いに小屋を建て、丸山ダムに沈んだ下立村(江戸時代呼称)に代表される河岸集落の旅館に投 宿して作業していた。さらに仕事が済んだ終点錦織湊から約2km下ると黒瀬で宿、商店、歓楽街もあった。今回の伝播考はこの2本の道がポイントであろう。

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「栗金が八百津発祥の地」説に挑む03

3. 砂糖はどちらが優位に運ばれたのか?

まずは明治20年当時に砂糖はどちらが入手しやすかったかの背景を探りながら、仮説を組み立てる。江戸幕府は廻船沿岸交通網を整備し、同時に山間奥地への河川舟運網の全国整備を展開する。この物流機能は鉄道が整備される大正前期まで全国各地で重要な役割を担った。尾張藩の八百津黒瀬湊は木曽川最上流部で存分に機能を発揮する。黒瀬街道などで苗木藩を中心に山間部から米・穀類・炭・板材・繭・茶などを運び、山間部へは塩・古着・海産物・肥料などを運ぶ。明治前期には塩と同時に砂糖が同じ経路で大量に運ばれている(美濃国加茂郡誌・中津川アーカイブス等参考)。八百津黒瀬湊には江戸時代中期の貨幣社会到来とともに問屋・家内制手工業が集積し、明治期には塩同様に砂糖も舟運で大量に持ち込まれた。一方の中津川や恵那はどうなのか?中仙道などの幕府が整備する街道は時代により変動するが各宿に近隣村々への使役として人馬の提供が義務化され、物流よりも通信網・公の交通網としての機能が主体であった。しかし藩や庶民の物流を中心とした機能の街道は他にあった。舟運の最上流地から山間部へ物流中心の街道である。山村でも貨幣が必要であり、その街道は農耕・林業閑散期には人馬(牛)による駄賃稼ぎ、つまり駄賃馬制で貨幣獲得および物流機能を発揮した。明治期の砂糖の移入経路はいろいろ考えられる。矢作川(現豊田市)経由中馬街道(田中氏/塩移入研究論文参考)が最短移入路と報告されているが、最上流湊から遠く、駄賃馬駅伝制入抜きもあり八百津黒瀬湊より入手量の安定とコスト面で圧倒的に不利であったと考える。明治20年当時の商品の栗金開発について原料の栗供給、モデルとなるソウルフードの存在は両者には差がない。ただし、今回の考察のように明治期の砂糖の移入には八百津がコスト・量確保・安定供給において商品化には優位であったと考察する。

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「栗金が八百津発祥の地」説に挑む02

2.あっ、そうか・・砂糖か?

さて、ここではっきりさせておきたい。栗金飩は栗を栽培しまたは山に自生する栗を利用した江戸時代以前から各家庭で地域のお菓子として食されたものをいう。
しかし本テーマであるどちらが早いか?については商品として販売された時期を検討するものである。
友人の和菓子屋の主人にいろいろ聞いているうちに甘味の素は飴でも砂糖でも可能であるが、商品としての製造は砂糖(この点は各店でノウハウ)である。つまり砂糖は どちらが早い時期に手に入りやすかったかが製造の側面から重要なポイントとなる。
そこで簡単に近世の砂糖の歴史を紐解くと江戸時代にも黒砂糖、和三盆、三温糖などの国内製造品があったものの、消費の2/3は滋養強壮剤として薬品扱いの立場である。(精糖工業会編)一方、明治維新以後も継続する不平等条約により安価、 高品位の輸入品が急増する。消費も欧米化した食品が増え、急速に国内製造は消滅していく。
上智大学論文に国民一人当たりの砂糖消費量推移のグラフがある。
それによれば、推計1874年(明治7年)を1として1890年(明治23年)には3倍となっている。
この年の量は順増の中で減少する日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年 )、第一次大戦(1914年)期とほぼ同量である。
日清戦争勝利で台湾を中心とする国内生産増を加味すれば、明治23年前後の日本人の輸入砂糖消費は一つのピーク期と捉えてもよいと考える。
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、東海道本線全線開通など明治政府がやっと安定期を迎える時期に重なる。
この年を中心とする10年がこの地方の餡餅屋から和菓子屋へ脱皮した時期になるのではないかと推察した。ではこの時期と特定し、栗金製造原料の入手しやすさの観点からどちらが発祥に近いか?以降、歴史的考察を展開していく。

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「栗金が八百津発祥の地」説に挑む01

1.発祥の地は中津川・恵那か、八百津か?
難しい質問をぶつけるいい奴

栗金は栗金飩を指す。
気の短い川筋気質の荒い言葉使いの八百津黒瀬では栗金飩を栗金と略すのが一般的であった。ここでは愛着をもって栗金と呼ぶ。
全国的にはおせちに入る栗きんとんが有名であるが、東濃地方を中心に栗の産地であったことで古くから家庭、地域で食された栗蒸し菓子である。
この栗蒸し菓子が和菓子として出来上がるのは明治20年代はじめである。八百津では老舗の和菓子屋さんが販売を開始し、発祥であると確信しているが、すぐに後発もできたものと推察する。15歳で八百津を離れて45年ぶりに帰郷すると栗金ファンは全国規模となっていた。その間、確かに全国のデパートの特産品販売会場でも中津川・恵那の栗金を見かけたし、女性向け雑誌で八百津の栗金が特集され、栗金の全国的認知度は上がった。
敬意を表したい。

帰郷して暫くしたころ、1軒の和菓子屋さんの同級生の仲良しご主人から「僕は栗金に自信を持ち、伝統と技で八百津和菓子屋各店と切磋琢磨して基本的に地元産の栗に拘り、安価で提供している。
しかし大量販売で規模を拡大している中津川・恵那は行政を含めて発祥の地をアピールしている。残念だが八百津は発祥の地を上手く説明ができないでいる。
八百津が発祥と思うが、歴史的な理由を考えてくれんかね~、お客様に正しく説明できるようにしてほしい~」と酒を酌み交わしてのほんの戯言ではあったが、八百津に再び住む者として、いつかは栗金の八百津発祥説を歴史的合理性の上で解明したいと思うようになった。
「よし、やってみよう」と言ったものの、意外に難しい。
後悔しながら仮説を組み立てる羽目になった。

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やおつよもぎプロジェクト

ヨモギはキク科ヨモギ属の多年草の日本在来種です。古くから薬草であったり、もぐさの原料となったりしている。八百津では「ぶんたこ」と呼ばれる草餅に利用され、乾麺に練りこまれたり、せんべいにも利用されたりと身近な野草です。

和菓子屋さんに聞くと以前は家族で八百津の高原地帯へヨモギを摘みに行っていたが、最近はその高原地帯の皆さんから格安で分けてもらうようにしていた。ところが高齢化が進み、その仕組みが崩れつつあるようです。

この話の始まりです。

そこで考えたのが遊休の畑でリタイヤした元気な若手老人がヨモギを栽培する「やおつヨモギプロジェクト=YYP」です。まだ、やり始めたばかりでヨモギを畑に初めて植え付けたところです。

目指すのは暇なで元気な老人力と遊休畑利用で目標収穫量はざっと1トン、無農薬(八百津特産酢の除草剤利用)、収穫時期に幅を持たせるため段丘と高原地帯の3か所へ拡大というわけです。さて、これからどうなりますでしょうか?

乞うご期待。