かつて東農と飛騨南部の物資を大量に運搬するにあたっては、木曽川と飛騨川の舟運が重宝されていた。物資は人の背や牛馬によって川湊に集められ、舟で下流に運ばれた。舟運に関した木曽川と飛騨川の川湊には、黒瀬湊、兼山湊、下麻生湊、小山湊、川合湊、伏見湊、野市場湊、太田湊、大脇湊、勝山湊、笠松湊、起湊などがある。
これらの川湊をひとつひとつ見ていくと、各湊の成立時期は明らかではないが、木曽川と飛騨川の舟運において、それぞれの川湊が果たした役割が判明する。
古文書によれば、木曽川上川筋において最も早く開かれたものに大脇湊がある。土田の領主大塚治右衛門の家臣塚田庄衛門が「鵜飼船」と呼ばれる舟(現在長良川で活躍している鵜飼船とは異なる作りをした舟)を作り大脇村の甚右衛門(後の舟問屋)に支配させたのが大脇湊の始まりと言われている。
慶長5年の関ケ原の合戦において徳川秀忠は信州上田の真田攻めに手間取ってしまったが、その時「関ケ原御陣の時、家康は東海道を上り給い、秀忠は木曽路を上り給いしが、家康公、秀忠公の遅参し給いを怒り便りをつかわされ、その事を強く叱責しかば、嶮山に武器を通わず故かく遅参に及べる旨、答あり、然るにその時、上田の舟問屋の祖先甚右衛門という者これより木曽川を船にて武器を通し給いしは、早く彼の地に貴せんと申上がり」とあるように、武器類を大脇湊から下流に流送している。
ところで大脇湊のすぐ上流では、可児川が木曽川に合流している。この合流地点のことを「大濤可児合と言うが、支村大脇は本郷の西木曽川と可児川の落合にあり、この落合を可児合と言う。往来の船この瀬を越す事をかたずる也。巌石欹ちて危うき処なり この大脇は木曽川上にて湊の本なるよし、古之可児合の瀬につかえて川上へは舟を通ずることあたわず」とあるように、舟が上ったり、下ったりするときの最大の難所であった。そのため、木曽川の舟運が始まった頃は、舟が大濤可児合より上流に上ることが出来ず、大脇湊が遡航終点となっていた。
その後、大脇湊より上流に幾つかの川湊が生まれてきたため、大脇湊は衰退していった。
近世中期には、元は10艘あった鵜飼舟も1艘となってしまい、運送の利潤もなくなり、それにつれ商人なども衰えていくという状況になってしまった。川湊としての機能がなくなり、物資もほとんど集まらなくなってしまったようである。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道