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八百津町教育委員会が発表した明治時代における黒瀬舟

黒瀬湊といわれても、それがどこにあるのか知っている人は現在では少ないだろう。八百津生まれの60歳以上の者でも、みながそれをよく知っているわけではない。黒瀬湊の繁栄の面影どころか、その名前さえ何時の間にか消えうせてしまった。その旧跡は水底に沈み、その頃の船は写真でも明瞭に見ることが出来ない。

 また、黒瀬の地名もかつては本郷(細目)、芦渡、鯉居、油皆洞、諸田、杣沢、北山、大梁、須賀と並び称せられたが、今は役場の文書にもなく、組分されて玉井町、本町、旭町、港町に分かれた。明治初年には上町、下町の二つに分けられた。

 黒瀬並びに黒瀬湊に着いて書き記された文献については、寛政のころ尾張の儒学者、樋口好古によって著された、「濃州徇行記」と、同年頃の史料である「細目村庄屋留書」がある。

 その他に、八百津の伊佐治昭二氏が前出の二文献を参考にして発表した論文「近世木曽川水運に関する一考察 美濃国黒瀬湊を中心にして」(「立命館文学」1963年4月号)この論文では、黒瀬湊の現在の様子についてはふれていないので、明治時代を中心にして古老からの聞書きと、手元にある史料をもとにして記したものであろう。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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水運と黒瀬街道の関わり

 この地方がいつから黒瀬湊、黒瀬街道を中心に発展を遂げて行ったか。苗木藩の南方中通11ヶ村(中野方村、毛呂窪村、姫栗村、河合村、飯地村、峰下立村、福地村、切井村、赤河村、犬地村、上田村)については記録のある限りでは次のとおりである。

 天正11年(1583年)5月、兼山城主森武蔵守長可は豊臣秀吉の命により苗木城の遠山友忠とその子息友政を攻めた。この時の兼山から苗木に向かっての進軍方法は、森軍の本隊は中山道を進み、別動隊は兼山で木曽川を渡り、細目村から一部久田見村(稲葉方通領)を通り、福地村から一部飯地の枝郷塩見を通過、中野方村から蛭川村を経て高山村から日比野を経て、苗木城下への道程を経て進軍した。

 何時の時代でも軍隊が進軍すれば、その後方にそれを支援する人々がついてまわる。後方の支援をする民軍に可成の農民がおり、商業に携わる人たちも居たはずだ。その後、森氏が苗木城を占領し、森の軍勢が18年間苗木城と遠山一族を支配する間に、そういった人たちから多くの兼山方面(森氏の地元)の文化がこの地方に流れ込んできた。

 この事がこの地方の開発と発展に寄与した。この地方(苗木藩南方中通り11ヶ村)の文化や因習などは、相当数が兼山を中心とする中濃方面から入ってきた可能性が高いと思われる。

 兼山方面とは断定できないが、現在テレビやラジオを視聴していると、この辺の言葉に似た訛りが時折聞こえてくることがある。それは郡上方面の言葉である。この事は、その昔郡上方面を治めていた東氏の家来で山田姓の某が一族一派を引き連れて、久田見村から塩見郷へ来て住み着いて多くの後裔をこの地方に残したことでも分かるように、その名残が訛りとなって残っているものと思われる。

 また、切井、赤河、犬地、上田などは苗木藩以前は赤河に拠点を置いた土豪纐纈一族が広くこの地方を治めていたのが、郡上の東氏を滅した遠藤慶隆を統領とする遠藤一派が纐纈一族を追放し、可成の支配になるまで間遠藤が支配していた事からも郡上方面との繋がりが深かったのではないかと推察される。中野方には今でも郡上に檀那寺を持つ檀徒が40軒くらいあるが、それはそういった歴史的背景の影響ではないか。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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木曽山の林業労働

木曽山での林業労働者は、作業によって、「杣」「日用」に大別される。杣は産地での伐木・造材専業夫であるが、江戸中期の頃から「小杣」を分岐し、小杣はもっぱら造材を受持つようになった。
運材専業夫の日用ももとは杣の兼業であったが、木材の彩運量が増すにつれて杣から日用が分化し、日用は木造りのすんだ材木の谷出し(山落し)から、小谷狩(木曽川本流までの運材)を経て木曽川本流を錦織綱場まで流送する「大川狩」までを担当するようになり、その頃から杣・日用共に、一人の組頭に統率される組織労働者としてそれぞれの作業に従った。木曽山で稼働する杣・日用の多くは王滝村を中心とする山間部の住人であったが杣組の中には裏木曽三カ村、特に付知村の杣衆の活動が目立っていた。

次に杣・日用の就労時間であるが、初期の濫伐最盛期には林業技術者が甚だしく不足していたため、杣は先進林業地の紀伊(和歌山県)・近江(滋賀県)方面から、運材夫は美濃(岐阜県)・越中(富山県)筋から無制限に雇い入れ、戦国期さながらの濫採活動を展開したので、その当時は杣・日用共に季節に関係なく、年間を通じて採運作業に従事した。それが寛文改革前後の頃から、木材の採運秩序が整うに従って杣・日用の分化が進み、両者はおおむね就労期間を異にするようになった。即ち杣は初夏の八十八夜(五月二日前後)に山入りして、元小屋以下の山小屋設営に着手し、施設地付近での宿泊施設が完成してから元伐り作業にかかり、秋分(九月二十二日前後)の頃にその年の伐木・造材作業を完了するのと通例とした。尤もその間、老練な日用によって各種の運材施設(後説)が架造され、その施設を利用しての山出し作業は手順よく行われるのであるが、最も多人数の日用を動員しての運材作業は、杣が元伐り作業を終えて下山した時期に始まる「小谷狩」からである。

おおむね渇水期の冬に施行されこの小谷狩は、木曽川本流の「大川狩」と共に多くの労働力を必要としたが、木曽川の川狩作業が冬季に定着するようになるのも寛文年間以降で、それ以前の採材最盛期には季節に関係なく、増水期の「夏川狩」も強行された。しかし出水期に行う川狩は、川下げ過程にある大量の木材を流失する危険が多かったので、十七世紀の半ばを過ぎる頃からは、流水量の安定する冬季だけ行われるようになり、そのために伐木作業は夏秋の交に施工されることにもなったのである。

転載:
木曽式伐木運材図会
監修・解説 所 三男
財団法人 林野弘済会長野支部

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黒瀬街道~トメ吉編~

やぁ元気かい??

ワシは黒瀬街道で荷物の運搬をしていた、とめ吉じゃ。

今日は、ワシが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するぞ!

黒瀬街道は、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんじゃ。

 ただのぉ、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんじゃ…

 ワシは、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるぞ!それにね、距離を測りやすいように一里塚も設けられてたんじゃよ。そういうのを、覚えている人も少なくなってきたなぁ…ヤスさんやダイさんも去年逝ってしまったしなぁ…

 ワシは今回「黒瀬街道」って紹介したが、住んでいる地域によって呼び方が変わるんじゃ!

恵那地方の人は「黒瀬街道・黒瀬道」って言うし、久田見地方は「善光寺道」。八百津の一部の人たちは「苗木道」って。まぁ行き先によって、呼び方が違うようじゃ。

 1665年頃(徳川4代将軍家綱公の時代)木曽川の水運が始まったから、

ワシの仕事は、湊周辺の山の中の村の産物(炭、薪、木材、お茶、生糸など)を沢山馬に積んで、湊に持って行くんじゃ。港で、産物を降ろしたら、ワシの仕事はお終い。じゃない。

今度は木曽川で船頭たちが運んできた、尾張地方の特産品(油、魚、塩、砂糖、衣類、金物など)が湊に着くから、それをまた、久田見村に持ち帰った。わしは久田見村に帰るだけじゃったが、湊に着いた荷物は、黒瀬街道を通って東西南北いろんなところに運ばれていったぞ。

 黒瀬湊が出来てからの久田見村は、黒瀬湊と各村の中継地として、物資の配送などにあたっていたんだ。だから、久田見村だけで馬は150頭以上いたぞ。久田見村には、いろんな村からの荷物が届くからのぉ、馬や人はどんだけおっても足りんなぁ。

 久田見村の中心は、中盛(久田見郵便局あたり)・松坂(白髭神社あたり)あたりじゃ。

ここら辺は、山村には珍しい町が形成されていたんじゃ。あそこには問屋(卸売業者)があったから、宿泊所や、飲み屋、遊技場などがたくさんあって、たくさんの人が集まってきた!ワシは久田見村の人間やで、宿泊所は利用せんかったが、飲み屋や遊技場は使わしてもらったわ。いろんな地区の人が集まるから、話題がつきなんだ。

 久田見村は、重要な交通の要所として大いに産業の発展に貢献していたんじゃよ。

ワシは、運送専門じゃったが、久田見村の小百姓らは農業がお休みの時期は、運送をする小百姓もいた。一日二回くらい黒瀬湊に往復する人もあって、一日中にぎわった街道じゃったよ。

もう、黒瀬街道の面影は、ないけど、栄えた道なんだ。

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黒瀬街道~うま吉編~

やぁこんにちは!!

ボクは黒瀬街道で荷物運びをしていた、馬の馬吉です。

今日はね、ボクが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するね!

黒瀬街道はね、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんだよ。

 ただね、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんだ…

 ボクね、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるんだよ!それにね、距離を測りやすいように一里塚も設けられてたんだよ。そういうのを、覚えている人も少なくなってきたなぁ

 ボクは今回「黒瀬街道」って紹介したけど、住んでいる地域によって呼び方が変わるんだ!

恵那地方の人は「黒瀬街道・黒瀬道」って言うし、久田見地方は「善光寺道」。八百津の一部の人たちは「苗木道」って。まぁ行き先によって、呼び方が違うみたい。

 1665年頃(徳川4代将軍家綱公の時代)木曽川の水運が始まったから、

ボクの仕事は、湊周辺の山の中の村の産物(炭、薪、木材、お茶、生糸など)を沢山背負って、湊にもっていくんだ。そこで、荷物を降ろしたら、ボクの仕事はお終い。じゃないんだ。

今度は木曽川で運んできた、尾張地方の特産品(油、魚、塩、砂糖、衣類、金物など)が久田見が湊につくから、それをまた、各村に運ばないといけないんだ…なかなか大変だったよ。

 黒瀬湊が出来てからの久田見村は、黒瀬湊と各村の中継地として、物資の配送などにあたっていたんだ。だからね、久田見村だけでボクの友達の馬は150頭以上いたよ。

 だからね、運送していくときは、列になって向かうから、長い道のりでも、みんなでお話ししながら、向かうことが出来たんだ!!

 久田見村の中心は、中盛(久田見郵便局あたり)・松坂(白髭神社あたり)あたりだったかなー

あそこには問屋(卸売業者)があったから、宿泊所や、飲み屋、遊技場などがたくさんあって、人がたくさん集まってた!

だからね、ここら辺は、山村には珍しい町が形成されていたんだ。

 久田見村は、重要な交通の要所として大いに産業の発展に貢献したんだ!

久田見村の小百姓さんも農業がお休みの時期は、お駄賃がもらえるから一日二回くらい黒瀬湊に往復する人もあって、一日中にぎわった街道だったよ。

もう、黒瀬街道の面影は、ないけど、栄えた道なんだ。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語06

よねは、弟を背負って寺の境内の掃除をした。落葉の清掃は子供にとって大変な仕事だが饅頭を喰った罰として自分から言い出したので、えらくともやらねばならぬと心に決め、実行する”信”の強い少女で有った。

その後は境内ばかりぢゃなく和尚様の毎日のお勤めの準備なども手伝う様になり、お経も何時とはなしに覚えてしまった。時々字なども教えて貰って若干は覚えた。それから数年立ち檀家の法要より葬儀などにも和尚様と一緒に行くようにもなった。

或る時徳行寺の壇徒総代の人が寺に来て『大磐若経六百巻』奈良六十六ヵ所に納むる人が誰かいないか探して居る話を和尚様として居るのを耳にした。 大磐若経六百巻 のお荷を各地六十六ヵ所に約六十日かけて納経する仕事でこうした人を六部と略して云う。

和尚様は「誰かないかなあ」と思案して居たが「そうだ”よね”にすすめて見よう」と思いつき、お鉢が遂によねの処に廻って来た。
よねは、心配だったが引き受けた。行ったことのない旅の空、今晩泊まる所もない。田圃の小屋でも炭小屋でもいい、夜露だけ凌げればいいのだ。

食べ物は行く先々で乞えばよい。和尚様は本尊の脇に有った観音菩薩様と丸い磨かれた石の玉を呉れた。
檀家より旅の安全が守られる様にお金と刀渡り約五、六寸の短刀を戴いた。旅で短刀の出番が絶対無い様にと祈り乍らも護身用として懐に、黒装束、蓑笠、手甲、却袢、わらじ、背中には背負櫃で大磐若経のお荷、観音様、丸い石、若干の下着なども入れて旅廻りの準備が出来ていよいよ明日より六十日位の旅立ちで有る。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語05

「お~よね」‥…「昨日、私の留守に佛様の饅頭を黙って喰ったのは、よねか」
「はい」「饅頭を喰いたいのは解るが、佛様の物を黙って喰ってはいかん。喰いたければ私に饅頭を下さいと何故云わなんだ。まして黙ってとった上、指でアンだけ喰って外の側だけ佛様にお供えするとはけしからん」

よねは堪えて居た涙と声が一気に噴き出し堰を切ったように泣き出した。
背中の弟も泣き出した。「和尚様ご免なさい」と一心に断り、「これからは絶対人の物に手を出しませんから許して下さい。」と懸命に断りやっと許しを得た。

和尚様は「解ればいい解ればいい」と云って佛様にお供えして有った”ういろ”を一個呉れた。

和尚様の前で堂々と”ういろ”を口にした。
大きな饅頭のアンと小さな”ういろ”の一切れは本当に旨かった。

『明日から饅頭を黙って喰った罰として三、四日、寺の境内を掃除しよう』よねは思った。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語04

饅頭でポンポコポンの腹に夕食など喰える筈もない。
偽病も大変で有る。母は心配してお粥を作って来て「喰え」と言って置いて行ったがお粥などは喰う気にはならず布団をかぶって居ると「腹が痛くてお粥も喰えんでは」と言って今度はセンブリの煮詰めたものを呑めと云って寝床へ持ってきた。これは苦くて苦くて呑めるものではない。(センブリとはトウ薬のせんじた漢方薬で有る)昼は甘い饅頭を腹一杯、今夕は苦い苦い「トウヤク」のせんじ薬を、腹痛を演じた偽病も大変な大芝居で有る。

知らぬうちに寝て目が醒めたら朝になって居た。今日はまた和尚様がどんな顔をして怒るのか…心配でならない。
今朝も弟を背負って寺へ行った。和尚様は朝のお勤めが有るので、お供えから掃除など忙しく働いていた。昨日の饅頭はもう無かった。

和尚様のお勤めの準備も終わり、これからお経が始まる時和尚様は「オイよね、ここへ来て私と一緒にお参りをしなさい」と云うので和尚様の後に弟を背負ったままチョコンと正座して小さな手を合わせた。

何時和尚様の神雷様が落ちるのかと心配で心配で朝のお勤めも上の空。
お経も終わり和尚様は静かに話し出した。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語03

遂に佛様の饅頭によねの手が伸びた。この方法ならば和尚も知らないだろう。
上重ねの一個を貰い、寺の階段に尻を据え、人差し指にて中味の”アン”を上手に穿って外側の白い皮を型がくずれぬ様に大きな饅頭を喰って背中の弟にも二、三回指で食べさせた。
そして何食わぬ顔で外側の白い部分を佛様お供えしておいて元の位置に戻して日も暮れかけたので家へ帰った。

生まれて初めてこんな旨い物を腹一杯喰ったはいいが、佛様の罰が当たらねばいいがと心配に成って来た。
明日は和尚様から大目玉が飛んで来るかも知れぬ。もう喰ってからではおそい。子供の腹に大きな饅頭のアンを腹一杯つめこんだので腹が張ってえらくて早々に布団に潜り込んだ。

日が暮れて夕食時に成っても起きて行かぬので心配した母が「よね、どうした」と聞くので「夕方から腹が痛い」と答えた。

真っ赤な嘘の仮病である。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語02

今日もよねは弟を背負って寺の境内で遊んで居ました。
ふと沸様の祭壇を見ると大きな饅頭が一重ね、お供えして有る。これを見たらよねは喰いたくて 喰いたくて 喉から生唾を呑んで、何とか上手に貰って食べられないかを勘考する。

今までこんな饅頭など喰ったことが無い。
「こんな饅頭を腹一杯喰ったら旨かろうなぁ」

それ以外は何も思わない。
今日は近くで葬式があるらしい。
和尚様が寺を出るのは昼前の頃だろう。その時を見計らって 沸様の饅頭を貰うことにした。

でも和尚様に許可も無く貰ってもいいだろうか。
和尚様は間もなく葬式に出ていった。
黙って 沸様の物を貰えば盗人となる。
でもこんな饅頭を喰ったことはない。右に左に善悪が交差して心が定まらずして居る時、よねの頭にひらめいたいい勘考が有った。