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宝蔵寺の昔話 房姫様物語01

私は寛延元年(1748年)奈良県柏村の一山村の貧しい家の男三人、女四人の」京大を持つ次女に生まれ、その名を”よね”と申します。
父母も子供を育てる為に朝早くより、夜おそく迄働いて居り”貧乏人の子沢山”故にその生活も大変でした。

大きい子供は家のお手伝いや子守など一生懸命にお手伝いをしました。
私も十二歳に成り弟たちの子守が専門の仕事でした。
今日も弟を背負って近くに有る禅宗寺の”徳行寺”にて子守をするのが日課で毎日が暮れておりました。

この徳行寺には五十歳位の和尚様が一人、寺の住職として寺を守り、時には人々の暮しの相談相手になったり手紙などの代筆を頼まれたり、それなりに忙しい和尚様でした。

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旧跡 錦織綱場

錦織綱場

錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。

錦織綱場

この綱場が、本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していた。

木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送された。

年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。

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福地の水車小屋

福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。

水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。
川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットしてあった。もちろん、水車が回っていても、突棒は止めることができるように、「クラッチ」の役割をする装置もあった。

石臼は、縦横が一メートル、高さ約八十センチくらいの石に、直径 八十センチ 、深さは約五十センチくらいであった。穴の形は、すり鉢状ではなく、U字型の穴状に深く掘ってあった。
これは餅つき用の臼では 搗精中に米などが飛び出さないようにするためであった。一カ所の水車小屋に、石臼が二つ装備されていた。

米の搗精の場合、石臼には五升(約九リットル)程度の玄米を入れると、一昼夜(二十四時間)で白米となった。しかし、米と米糖が混じるため、専用の「篩」で米糖を搗精中に取り出す苦労があった。しかし、現在のコイン精米機と違って、じっくりと時間をかけ搗精し、精米中に摩擦熱を出さなかったため、大変味が良かった。

福地の水車小屋は、小河川の水流を利用して設置されていた。その数は分かっているだけでも十カ所以上あった。

豊富な水を利用した水車小屋であったが、搗精の効率が悪かったことに加え、農協が組合員の希望により、米つき作業の専任者を傭い、効率の良い搗精機を導入したこともあり、水車小屋の老朽化が進んだこと、水車小屋を修理しようにも修理するための技術を持った大工や石工がいなくなってしまったことなどにより、昭和二十年代(1950年ころ)後半には、ほとんど使用できる水車はなくなってしまいました。

 童謡にも歌われた「森の水車」を懐かしく口ずさみながら、老人が米を背負い、農協の米つき場に通う姿があった福地の田舎風景を、今も思い出す。

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房姫様物語⑪

檀家の人々はみな「よね」の働きぶりに関心し、
「庵を建てたらどうだろう」と相談するようになりました。
「よね」がそれを聞いて驚き、
「私にはそんなお金はありません」と言って断ると、
「そんな心配はいらない。檀家のみんなで建てるから」

檀家の人々は柱一本、ワラ一束と持ち寄って
宝蔵寺の東隅に庵を建てました。
正面には「よね」が奈良の徳行寺を出るときに
もらってきた観音様を本尊とし、
他の仏具は宝蔵寺よりもらってきた物で
形を整えました。
庵は「慈草庵」と名付けられ、
近くに1本の山桜が植えられました。

「よね」は宝蔵寺脇の尼僧として働くようになり、
檀家の人々からは
房姫さまと呼ばれるようになりました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 26号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑩

宝蔵寺は奈良の徳行寺と同じく禅宗の寺でしたので、
ヨネには要領がよくわかっていました。
朝のお経もとても上手にあげて、和尚さまを驚かせました。
「あなたの都合もあるだろうが、しばらくこの宝蔵寺にいて手伝いをしていただけないだろうか」
和尚さまはヨネにそうもちかけました。

「まだ二十巻ほど納礼をしなければなりませんが、
その後ならよろしゅうございます。」
和尚さまはこれを聞いてたいそう喜びました。

ヨネは宝蔵寺を出て東農方面をめぐり、
大任を果たして宝蔵寺まで無事に帰ってきました。
その翌朝から手伝いをするようになりました。
宝蔵寺は檀家も多く、法要や葬儀など、
和尚さまは大変忙しいのでした。
ヨネは懸命にお手伝いし、檀家へもしばしば行くようになりました。
檀家の人々はみなヨネの働きぶりに感心しました。

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黒瀬街道とは

 黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物をつけて、黒瀬通いの人々路傍の石ころまでも熟知した人たちも一人二人とこの世を去り、知る人も少なくなってきています。

 この街道は、恵那地方では、黒瀬道と呼んでいます。久田見地方では、善光道と呼んで、八百津の一部において、苗木道と呼び、地域において自分の行き先によって呼び名も違ってくるようです。この道は、八百津港町「八百津橋のたもと」の黒瀬湊を起点として、久田見、福地、中野方、蛭川、恵那、高山を経て飛騨街道と合流して更に南下し、苗木、苗木城下までの道です。港から芦渡、鯉居を通り山間の急坂を登り、小屋が根峠を越して久田見村に入りました。ここから夫婦梨、野黒、寺坂、赤坂を経て中盛、野添、薬師、松坂の急坂を長曽え、長曽橋を渡れば福地本郷です。岩穴下落合の谷底の道を蔵橋の坂を上がって、いぼ岩峠、篠原を越して下ると恵那の中野方です。所々で道が分岐し、汐見や白川、恵那方面に至ります。重要幹線で、人馬の往来も多く、物資の輸送により苗木領の人々や各村々を支えた生活道路でした。また、往来する人たちのために、一里塚も設けられていたようです。

 黒瀬湊を中心に街道が成り立ち、寛文5年頃(1665年)、木曽川の水運が始まり、その利用は益々繁栄の一途を辿り山国の産物、船を使っての尾張地方の特産物が湊に運ばれ、湊から黒瀬道を使って各地に人馬によって運ばれて行きました。昭和18年12月、兼山ダムの完成により、舟が全く姿を消して、船頭はついに水から陸に上がって木曽川の様相も変わり、黒瀬湊も川底深く水没しました。長い歴史を持つ黒瀬舟の舟運は、ことごとく姿を消して、幕を閉じました。今はその名残の湊の灯台が川上神社の常夜灯として舟の安全を祈っています。

 舟の積載量は、一舟当たりが460貫、上りが100貫位で、下りの船は、炭、薪、氷、木材、コンニャクいも、お茶、生糸、雑穀など、尾張方面から上り荷として、野菜、油、石油、魚、肉類、味噌、たまり、塩、砂糖、うどん粉、乾物、衣類、金物、陶器などの、人の生活に必要な物資が湊に着いて、黒瀬街道を東西南北に人馬によって運ばれて行きました。

 その頃、久田見は、黒瀬湊の中継地として、物資の配送などに当たり、馬など久田見に約150頭を持ち、鈴を鳴らしながら街道を通る馬の列が見られました。また、問屋は、中盛、松坂などにあり、現在は、その形すら消えていますが、屋敷などが往時の面影をしのばせます。恵那、白川方面からも必ず久田見の問屋を通って黒瀬湊へ。久田見が重要な交通の要所として大いに産業の発展に寄与しました。

 また、久田見として、宿泊所や飲み屋、遊技場などがあって、久田見の町中も大変にぎわいました。このため、久田見の中盛地内などは、山村には珍しく固まった町並を形成しています。また、問屋の指示により、伯楽(馬などの医者又は見立てをする人)継立(荷物など運び送り継ぎする人)助郷(重い荷物を助けてやる人)などの仕事も問屋の仕事となり、小百姓も農閑期には駄賃持ちで一日二回ぐらい黒瀬湊に往復する人もあって、朝早くから遅くまでにぎわった黒瀬街道でした。

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山論の舞台・長曽橋

 福地村と久田見村による山論は、尾張藩の久田見村VS苗木藩の福地村、犬地村、上田、飯地、中野方、切井、黒川、赤河及び蛭川の9村連合であった。

 山論の舞台は、福地、犬地両村の土地であったが、苗木藩の7村が加わったのは、福地村長曽にあった長曽橋(古くは「中瀬橋」と称した)が絡んでいた。長曽橋は黒瀬街道の長曽川に架橋された要衝であり、福地村庄屋・辻市左衛門正倚宅から約100mほど下流に位置し、現八百津町内で一番古い橋とされている。長曽橋がいつごろ架橋されたかを知る史料はないが、戦国時代の細目村黒瀬(現八百津町)から、この長曽を通り苗木の9村に通じていた。

 架橋時期の一説には、1635(寛永12)年「武家諸法度」が制定されてから始まった参勤交代の時に苗木城主が福地村長曽を通るとき、橋がなかったため村人がいた橋を作ったといわれている。城主が江戸表へ参勤する場合は、島崎藤村の「破戒」でも言われているように、中山道を利用することが合理的であり疑問が残る。京へ行く場合は、長曽橋を利用したであろう。しかし9連合村にとっては、年貢を運んだり日常の物品を手にするには、中山道より、黒瀬街道の通過点である長曽橋のほうが重要であった。

 当初の長曽橋は、板橋で橋脚のない短い橋であったため、大水が出ると流失してしまうことがたびたびあった。架け替えは久田見村を除く山論の連合村だけが出役し、修復していた。長曽はしは連合村にとって重要な共益の橋であり、橋の土地が久田見村になることを許さなかったのである。

 山論の舞台となった長曽橋は、1704~1710年の宝永年間に木製の橋脚をつけて改修されたが、現在ではコンクリート製となり、現存する黒瀬街道の一端となっている。

(注)この稿は    「福地昔の物語」(今井定夫著・未定稿2015年)    を参考にした。
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福地村と久田見村の山論2

 福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。

 神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。

 ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。

 裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文7)年から数えれば、156年間の紛争にようやく決着がついたのである。

 しかし、一件落着のはずであった山論は、1894(明治27)年(日清戦争が始まった年)に再発した。久田見村が突如、伽藍谷の一部180町歩を久田見村領とする所有権の登記をしたのである。

 「そんなこと、あらすか」と怒ったのは、福地の村人であった。話し合いはつかず、久田見村が鍬・鎌・鉈のほかに竹やりまで持ち出して樽洞周辺まで押し寄せ、険悪な雰囲気になった。このことは、私の隣に住んでいた故 谷津金八さんが生前に話してくれたことを覚えている。

 私の記憶によると、故 金八氏は、「日清戦争に従軍し、福地を留守にしていたが、退役した時、久田見村が、福地の樽洞あたりまで竹やり・鍬・鎌・鉈などをもって攻め入ってきた。福地の村人もこれに呼応し、険悪なこととなり、けが人まで出た」と話していた。

 明治の山論は、1899(明治32)年に仲介人(どのような人物であったかは、わからない)の骨折りで、久田見村が、該当地を175円で買うことに決した。ことの初めから数え232年、欅事件から数え86年、江戸神社奉行の裁定から数え76年を要した。

(注)山論の稿は    「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編)    「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著)    を参考にした。
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福地村と久田見村の山論1

 福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。

 幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。

 福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9村と尾張藩久田見村の領地紛争である。

 領地紛争は、記録にあるだけで1667(寛文7)年から9回に及んでいる。紛争は、その都度内輪の内々で処理されていたが、1813(文化10)年、犬地村内で発生した「欅事件」が大山論の発端となり、1819(文政2)年久田見村が、一方的に江戸の神社奉行へ出訴した。

 奉行所は、双方の言い分を聴取するとともに、現地調査も4回実施し、1823(文政6)年になり、久田見村の言い分を認めず、9村の主張する境界を確定した。実に4年の歳月を要した。

 この間のいきさつは、多くの記録書があるが、福地村庄屋辻市左衛門による「山論日記」によれば、神社奉行所の3回目の現地調査は70日間に及び、苗木藩だけで5千人の村人を動員したという。おそらく、久田見村も同程度を動員したと思われる。

 山論の結末は、多くの村人を巻き込みながら、沓として結論を得ることができなかった。この問題の処理には、村人の出役と費用を要したが、双方互いに譲らず真剣に論争が続いた。そして、血気にはやる村人の中には、槍・刀を持ち出して争った。

 次回は、福地村と久田見村の山論の内容を記すこととする。

(注)山論の稿は    「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編)    「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著)    を参考にした。
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河川輸送の基地「黒瀬湊」

木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。

元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒瀬に来て舟路を開発した。その結果、根拠地(湊)をさだめ、多数の楫子を指導し、これを統制して盛んに水運を行うに至った。これが黒瀬湊の起源である。数年、黒瀬舟の覇名を唱えるに至った。

八百津を今日に表しめたのは、氏に負うところが多かった。この説は記録によるものでなく、伝承を纏めたもので、杉山某を黒瀬湊の開始者とするにはあまりにも時代が新しい。

しかし、舟運開発が他の河川より技術導入がなされ、鵜飼舟の使用と舟頭の出自は、長良川筋からであったと推定される。そして杉山氏は、享保元(1716)年四月十二日、この地に於いて卒去され、その墓碑は黒瀬湊より約百メートル上流の木曽川畔に新しく立て替えられている。

木曽川の水運の重要性は、木曽谷から木曽材を流送することがあったが、さらに木曽川筋の経済開発の面からいっても川道交通の意義は大きかった。木曽川は交通の大動脈で、室町時代(1392~1573)には、既に木曽川上流川筋の逆行の最終港として兼山湊があった。

木曽川の舟運は木曽材流送の間を縫って行われていたから、近世の頃には、それほど発達せず、領主の必要な物資や年貢米の輸送が大半で、江戸時代によって「木曽式材木運材法」が確立してからは、材木が冬から春にかけて流送されるようになり、それ以外の季節は航行自由であった。
一方、農民の商品生産が盛んになるにつれ、木曽川は物資を輸送する大動脈となった。

寛永中ころ(1630年代)、黒瀬に住み着く者が次第に増加して、従来兼山へ運んだ久田見苗木領辺りの山荷物が黒瀬で売られるようになる、黒瀬には未だ船がないので、兼山商人に買い取らせ、兼山舟で船積みし下川筋へ送っていた。

その後、黒瀬も兼山舟を雇って船積みを始めていたが、やがて黒瀬に舟も出来てきた。寛永年間に黒瀬が兼山代わって終航地となるのみでなく、奥筋の山荷物の商いも兼山商人を締め出し、ここに新興黒瀬は「錦織御用舟」の公益負担によって舟運権を入手することになった。

ここに水運が開発されると、加茂・恵那の後背地の山地集落の人々は、この水運を利用することが多くなり、黒瀬湊は貨物の集散が夥しくなった。このため天正二(1574)年には黒瀬湊舟積荷物に十銭役を課せられ、さらに元禄七(1694)年よりは商人荷物運上銀を取り立てられることになった。

このころより商家が多くなり、木曽川最奥の河津として、常に多数の鵜飼舟がこの港頭に集まり、帆柱林立して繁栄の湊となった。

「濃陽循行記」に曰く、「享保四(1719)年御役場御番所を立て各務勘兵衛役銀の事を掌る。黒瀬舟積荷物十銭役は天和二(1682)年より、商人荷物諸色運上銀は元禄七(1694)年より取り立つ、黒瀬町は商家多く繁昌なる湊也。高百六十三石八斗七合 家百七十五戸男女六百五十四事、鵜飼舟六十 艘 あり」とある。当時陸上の交通機関が未だ完全でなかったので、舟運が唯一の運輸機関であった。

黒瀬湊は日ごとに盛んとなり、加茂郡東北部の久田見・福地・潮見・飯地・犬地・和泉・神土・恵那等の移出品は坂路を馬の背によって、ことごとく黒瀬湊に運ばれ、黒瀬船によって下流の岐阜・笠松・一宮・名古屋・桑名・四日市等の各地に回航され、また苗木藩の江戸御用米は、この黒瀬湊より積み出され桑名を経て江戸に回航された。しかも下航した鵜飼船は、塩その他の移入品を積み、満帆に風を孕めて上航し、湊からは陸路黒瀬街道や白川街道を馬の背により、加茂東部を始め、恵那郡木曽川以西及び南飛騨の一部等広き地域に搬送された。黒瀬湊には、日ごとに多数の駄馬が往復し、商業繁盛を極め、鵜飼い船は百隻の多くを数えた。
明治二十(1887)年頃がその最盛期であった。