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房姫様物語⑨

「よね」は大日寺まで来た時に
大きな石の上で一休みした。
季節は春で、
ポカポカした陽気の中にウグイスの声も聞こえ、
そのうちついウトウトと眠ってしまった。

しばらくしてそこを通りかかったのが、
宝蔵寺の和尚さまだった。
「や、こんな所で尼さんが居眠りしているぞ。
風邪をひいたらいかん」
和尚さまは「よね」を起こした。

「私は大はんにゃ経六百巻を
六十六ヵ所のお寺に納めてゆく六部でございます」
「よね」がそう説明すると、
「今日は日暮れも近い。私の寺はすぐ近くなので。一晩泊まっていきなさい」
和尚様はそういって「よね」を寺に案内した。

「よね」は宝蔵寺で夕食をご馳走になった。
その翌朝、
「とてもお世話になった御礼に、
お寺のお手伝いをさせてください」
「よね」がそう願い出ると、和尚さまは喜んだ。
「それは大助かりです。ぜひお願いします。」

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 23号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


—–
(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑧

「よね」は長い旅のお勤めを
立派に果たしました。
六十六ヵ所のお寺めぐり、
十日ほど予定を遅れて、
無事に徳行寺に戻ってきました。
和尚さまも村人たちもみな大変に喜び、
「よね」の労をねぎらいました。

「よね」は以前のように
和尚さまのお手伝いをするようになりました。
二十一歳の娘盛りで、お化粧などしなくとも、
十分に美しい娘でした。
「よね」はしばらくしてまた
旅に出ておつとめをしたいと
願うようになりました。

和尚さまにそのことを打ち明けて相談しました。
「若いときでないとできないことだ」
と和尚さまは賛成し、
今度は岐阜の美濃から東濃をめぐる
おつとめになりました。
「よね」は再び出発し、
美濃の細め村から野黒村に来て、
善通寺(現 連田)、浄蓮寺(現 上田)、大日寺(現 苦沢)まで来ました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 22号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑦

あるとき和尚さまの所に
「六部となって
旅に出られる人は
だれかいないか」
という話がきました。
六部とは、
六はんにゃ経六百巻を
六十六ヵ所のお寺に納めてゆく人のことです。
六十日ほどかけてお寺をめぐってゆく
それはもう大変な仕事です。

和尚さまは悩みましたが、この仕事を、
「よね」にやらせてみようと思いおました。
話を聞いた「よね」はとても不安でしたが、
引き受けることにしました。

和尚さまは喜び、観音さまの像と、美しく輝く石の玉をくれました。
またお寺の檀家は、身を守るための短刀をくれました。
「よね」はそれらを大事に身につけて、長い旅に出発しました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 21号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑥

「よね」は翌朝から人が変わったように
熱心に働く子になりました。
弟を背負ったままで
境内の掃除をするのは、
決して楽な仕事ではありません。
それでも「よね」は落葉清掃など
とても熱心にやるようになり、
和尚さまを関心させる子になりました。

その後は和尚さまの
毎日のお勤めの準備も
手伝うようになりました。
お経も毎日聞いているうちに、
いつの間にか覚えてしまいました。

その後、数年がたちました。
弟を背負わなくてもよいようになると、
檀家の法要や葬儀にも
和尚さまについていって
お手伝いをするようになりました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 20号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑤

「まんじゅうを食いたいのはよくわかるが」
和尚さまはやさしい声で言いました。
「仏さまのものを、黙って食ってはいかん。
食いたければ、
私にまんじゅうをくださいと
なぜ言わなんだ。
まして黙ってとったうえ、
指でアンだけ食って、外の皮だけ
仏さまにお供えするとはけしからん」

「よね」はがまんしてきた涙と声が
一気にふきだし、大声で泣きました。
「和尚さま、ごめんなさい。
もう人のものには手をだしません」
心からあやまりました。

「わかればいい」
和尚さまはそう言って、
仏さまにお供えしてあったウイロウを
くれました。
和尚さまの前で堂々と食べるウイロウは
本当においしいウイロウでした。
「よね」はうれしくて、おいしくて、
泣きながらウイロウを食べました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 19号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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房姫様物語④

翌朝になりました。
「よね」はいつものように弟を背負って
お寺に行きました。
今朝は和尚さまはどんなお顔だろう。
心配でなりませんでした。
和尚さまは朝のお勤めの用意で
忙しそうに掃除しておられました。
昨日のまんじゅうはもうありませんでした。

お経が始まるとき、和尚さまが言いました。
「よね、ここへ来て、
私と一緒にお参りしなさい」
「よね」は和尚さまの後に正座し、
弟を背負ったまま小さな手を合わせました。
いつ和尚さまのカミナリがおちるかと
心配で心配で、朝のお勤めも上の空でした。

お経が終わると、
和尚さまは静かに話しかけました。
「よね、昨日のことだが、私の留守に
仏さまのまんじゅうを黙って食べたのは、
よねだな」
「はい」
「よね」は正直に返事しました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 18号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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房姫様物語③

あまいアンをお腹いっぱい食べたものの、
家に帰った「よね」は
だんだん不安になってきました。
こんなことをして、
ほとけさまのバツが当たったらどうしよう。
「よね」は心配で心配で、
おふとんにもぐりこんでしまいました。

ばんごはんにも「よね」が
起きてこないので、
お母さんは心配になりました。
「よね、どうしたの?」とお母さん。
「お腹がいたい」と「よね」は
ウソをつきました。
本当はお腹がいっぱいで、
ばんごはんが入らないのでした。

お母さんは心配してオカユをつくり、
「よね」のまくらもとに置きました。
ところが「よね」が
それも食べないので、
今度は煮つめたセンブリを
持ってきました。
「これを飲みなさい」
センブリとは漢方薬なんですが、
それはもう苦くて苦くて、
「よね」は顔をしかめて飲みました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 17号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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赤十字奉仕団 福地分団 6/16 取材

高齢者世帯(奥さんが80歳以上の世帯)9件と独居10名の方々にほう葉寿司を配布。
福地在住の女性11名(6自治体から各一人つづ参加が義務付けられているが、この日は2人参加している自治体もあり、全部で11名の参加でした。)の方々のボランティアによる活動です。
参加者の方からの差し入れのお茶とおやつをいただき、休憩をはさみながらわきあいあいとした雰囲気の中で作業が進められていました。(手作りのお菓子や、旅のお土産など。参加者は、料理上手な方が多い。)

6月中旬。
ほう葉は充分に育っている時期です。
大きさも大きすぎるほどのものもあり、端をハサミで切ったりして大きさを調整していました。

福地エリアの方々11名のメンバーの中でも包み方、具材はそれぞれのようで、「今日はどうやって包む?」などと相談しながら作業を進めていました。
たくさん作らなければならないこともあり、手間がかからない輪ゴムで止める方法を採用。
錦糸卵の黄色と、しょうがの赤、緑のたくわんが入り、配色もきれいに考えられています。
日持ちさせるためか、好みか、砂糖、酢多めで濃い味でした。
味付けは好みもあると思いますが、 濃い味付けのほう葉寿司 は時間がたつほど味が馴染んで美味しく感じます。
この日の寿司酢には、ジャコも入っていて酢と一緒にごはんに混ぜたため、少し食感が変わり、それが美味しく感じました。

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あおやぎ青年隊の酒米づくり

久田見 『あおやぎ青年隊』

『あおやぎ青年隊』 はもともと約20年前、地元のためになにかしようと集まった地元有志で結成されました。
(「あおやぎの里」は、古くからの久田見の美称だそうです。)
30代~40代の比較的若い世代20人程度のメンバーで、地元の草刈りや夏祭りの開催などを中心に活動をしてきました。

休耕田を復活させたい

どこの山里も同じ問題を抱えていますが、八百津町久田見でも「休耕田」が増えてきています。今地元のためにやるべきことはこれじゃないか?ということで、あおやぎ青年隊メンバーの中で手が空いている人が田んぼの手入れ(草刈り、水の管理、田んぼの中の草引き)をする共同作業で、休耕田を復活させる活動を始めることにしました。
地元の酒蔵「 花盛酒造株式会社 」さんにもアドバイスをもらい、地酒の素材となる酒米をつくることに決めたのですが、そこからトントン拍子で美味しい酒米が収穫できてしまい、なんとこの冬、久田見のたんぼ休耕田だった田んぼから地酒『久田見』が生まれ、少量ではありますが販売して、皆様へお届けすることができました。

ラベルに入っている銘柄「久田見」の文字は、「ひさびさに田んぼを見た。」という久田見の地名の由来になった言葉と(徒歩で息を切らしながら山を登ってきた旅人が、久々に田んぼが開けたのを見て漏らした言葉)と、休耕田がよみがえった光景を掛けた言葉です。

兼業農家の家庭で育って、田んぼの経験がある久田見の井戸正秀さんが活動の先頭をきっています。

若い世代で田んぼづくりを経験 しよう

もともと兼業農家の家で育ってきた久田見の井戸正秀さんには、田んぼをする技術の土台は身についていました。しかし、田舎とは言っても地元の同年代が田植えを経験したことがある人人間は1割程度。
田んぼ技術が継承されていないという現実を目の当たりにしていました。

このままでは、地元の休耕田畑は増えていくばかり。
若い世代に田んぼづくりを経験してもらうということだけでも、この活動には意味があると考え、自ら先頭に立って酒米づくりをしていくことに決めました。

花盛酒造の可児さんには、育てる酒米の銘柄として 「吟のさと」の種籾を選ぶことを提案 していただいていましたが、「吟のさと」は 九州で開発された品種 で、寒冷地には適していないとされてるものです。
久田見は極寒の地ではないとはいっても、平地と比べると寒い気候ではあります。栽培しやすく、吟醸酒の麹米に向いているとはいえ、この土地で上手く育てられるのか?という不安の中での作業開始です。

まずは「若い世代が米作りの経験をする」という目的が達成できれば第一段階として成功と考えていて、 最初はお酒が完成する段階まで到達できるまでは何年かかかるものだと思っていました。

久田見にも酒蔵があった時代がありました。

酒米を作りをおそるおそる始めてみていると、80代~90代の先輩の方々から「昔は久田見にも酒蔵はあった。戦後の頃にはもうなくなってしまっていたが…。 」 という話を聞く機会がありました。
久田見で酒を造っていた時代があったということが、久田見で旨い酒米が作れる環境であるという証明のようで、これはきっと良いものができるぞ!と少しづつ期待がふくらんできました。

そうして、収穫ができた米のもみすりをし、玄米にするところまでの作業をし、「花盛酒造株式会社」へ持ち込むと、「 たいへん良いお米ですね 。お酒、造りましょう。」となり、トントン拍子で「純米清酒 久田見」のしこみがはじまってしまいました。

地酒「久田見」誕生

水源は 木曽川支流 の旅足川。水が良く、風土もよい。
田んぼづくりが盛んで美味しい米が作れる土地、久田見で、種から育て、田植えをし、玄米までを久田見の土地で、久田見の人間で完結させた酒です。
 花盛酒造株式会社さんのお力を借り、袋吊り自然垂れで搾った「しずく取り」の商品は限定で商品化させていただきました。
すっきりとした飲みやすい口当たりで、お食事中のお酒として特におすすめです。

一年目は、1合瓶300本程度と、そんなにたくさんの量は作れませんでしたが、まさかお酒の完成までたどりつけるという期待をしていなかったので、大変大きな成果を得たと考えています。今後生産量を増やし、地元特産品として持続・継続した生産を続けていくためには、まだまだ課題は多いですが、問題点をクリアしながら一歩づつ前進していきたいと思います。

  • 花盛酒造(株)
    〒505-0301
    岐阜県加茂郡八百津町八百津4091
    OPEN:平日9:00~19:30
    土・日・祝9:30~19:00
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やおつの「ぶんたこ」について

「ぶんたこ」って名称絶滅危惧種?

八百津町本町通りには三軒の立派な和菓子屋さんがあります。4 月の八百津祭りには地元の山のヨモギをふんだんに使った「ぶんたこ」と言う薫り高い春の息吹を感じさせる和菓子が並びます。しかし転勤族だった私は「ぶんたこ」という名のお菓子をほかの地域で聞いたことがありません。

一般には草餅ないしはよもぎ餅と言われます。八百津町でも「ぶんたこ」を知らない世代が増えてきました。絶滅危惧名称かもしれないと思い調査しました。

八百津町内 和菓子屋の『ぶんたこ』


レファレンス協同データベースにある「ぶんたこ」の項目に各務原市立図書館提供資料があります。それには『岐阜県方言辞典』および金沢市図書館、京都女子大学資料で「ぶんたこ」の由来および美濃方言であると記述してあります。ほんとにそうかと考え、岐阜県図書館にて岐阜方言の詳細を調査しました。

結果として「ぶんたこ」は絶滅危惧の美濃方言の名称であると推察できました。続いて文献に限らず、実際にはどうかと各務原市立図書館調査資料に従い、各務原市の河野西入坊辺りで住民の方などにヒヤリングした結果、確かにご近所の古老は現物がなくとも草餅を「ぶんたこ」という呼称に反応し、近隣の和菓子店の草餅の呼称も「ぶんたこ」でした。文献では蓮如上人に好物ハクタクを献上したので特に中興の祖とするお東さんつまり浄土真宗大谷派の寺院では蓮如さまなどの名称の祭礼で好物の「ぶんたこ」餅を配る習慣があったこと、また各務原の古老の話では、今は規模が縮小しているが、昔は各務原市、同川島、笠松、羽島などにお東さんの寺院が多く、そこでは蓮如さまと言う祭礼が執り行われ、「ぶんたこ」を配って食べる風習があったことがわかりました。岐阜方言のさらなる市町村ごとの方言の冊子やネットでの情報では、「ぶんたこ」は草餅以外に団子だったり、柏餅だったりします。指し示す餅の種類は違っても各務原市以外に岐阜市、羽島市、関市、白川町、坂祝町、美濃加茂市、可児市、御嵩町、川辺町の一部で使い、多治見など東濃では方言の記述がみられないことがわかりました。草餅を「ぶんたこ」と未だに言う範囲はある限定された地区だと推測できました。しかも中濃地区および岐阜市を含む木曽川筋に残っていることが分かりました。一方でその地域でも「ぶんたこ」が通じる人は減少しており、名称絶滅危惧種に該当するようでした。

「ぶんたこ」ってなに?

平安時代に鑑真和上に象徴されるように唐との交易が盛んになると仏教文化とともにハクタクなどの饂飩に似た菓子が伝わります。穀物の粉を餅状にし、延ばして焼いたり、揚げたりします。そのうち餡を包んだりしたようです。後年、浄土真宗第 8 代世宗主 蓮如上人(1415~1499)は応仁の乱を含む室町時代におい
て浄土真宗の中興の祖として活躍します。蓮如はハクタクが好物といわれ、親鸞を開祖とする西本願寺系に対して親鸞とともに中興の祖の蓮如をお祀りすることの多い東本願寺系の寺々では「蓮如さま」という祭礼が執り行われることが多々あるようです。その際に好物のハクタクをお供えし、供養し、それを下げて門徒で分けたようです。しかし文献ではこのハクタクが美濃方言として「ぶんたこ」となったかについては不明となっています。「ぶんたこ」には諸説あり、文化凧説などもありますが、文化凧自体の存在がありません。尾張藩学者恩田は餅を尾張藩ではブンタクというはハクタクが転じたと記録しております。たしかにタクはタコを言い換えられます。後の記述は推察であります。日本の饂飩系食べ物で小麦粉を練ったものをスイトンと呼びますが、九州を中心に瀬戸内まではそのスイトンを「だご」「だんご」と呼びます。一方、岐阜県で羽島市竹鼻はみたらし団子に味噌を使ったみそぎ団子を「味噌付けぶんたこ」と呼びます。さらに「日本のまん真ん中岐阜県方言地図第三集」には美濃加茂市(海津地区もいう)辺りで分け前のことをブンと表現する資料があります。蓮如さまで下げた菓子餅を門徒に分けた分け前をブン、団子がダゴ、タコになるのではないかな~そうするとハクタクは「ぶんたこ」へ名称が変化してきたと推測できるように考えました。いずれにせよ、「ぶんたこ」はこの地域に根付いた独特の和菓子の名称であります。文献には八百津町が真っ先に出てきますが、関市、美濃加茂市でも餡入りよもぎ餅を指します。しかし、岐阜市の長良川北部では柏餅に転じているようです。

「ぶんたこ」はどのように八百津へ来たの?

蓮如上人 像

各務原の河野西入坊のような浄土真宗のお寺は八百津町には二寺しかありません。和菓子屋のある地区のお寺は浄土宗と臨済宗です。しかも残っている和菓子屋さんはすべて臨済宗門徒です。お寺だけでは説明出来ません。仮説としてお話します。八百津町の旧八百津は明治になるまでは細目村といい、尾張藩の重要な舟運の一大基地であり、河川運送と陸送の接点で問屋、家内制手工業を含めて巨大は経済圏を形成しておりました。記録によれば 18 世紀中半では細目村に人口は 3,500 人程度を想定され、単純に日本総人口が現在の 1/4 程度であり、今の感覚では 14,000 人が生活していたと推定させる賑わいでした。
国内では江戸時代から砂糖は製造されていましたし、輸入もされておりましたが当時は薬としてまたは、高価な菓子として存在し、一般庶民が口にできるようになるのは明治を待たねばならなかったようです。さて細目村の黒瀬湊が急速に発展するのは尾張藩が錦織湊に代官所を設けてそのために近隣に尾張藩として河
川運送基地が必要であり、1670 年くらい(だんじりの始まりのこのころ)から次第に規模が拡大したものと思われます。その繁栄はダム建設が本格化する大正中期(1915 年くらい)まで続きます。旧苗木藩各地を中心に往復陸路運送基地機能と木曽川下流域、犬山近隣の振興用水、下流で接近する長良川、揖斐川も
利用して名古屋を含めた各地への往復河川舟運基地機能を有す木曽川最奥部湊を形成します。経済ダイナミックが発揮され、必然として一次加工業が発展し、「ぶんたこ」を例にすればその舟運を利用し、砂糖が比較的安定的に安価で素早く利用できた点、木曽川支流の荒川で水車を利用した製粉業ができた点、さらに八百津町の高原地帯のよもぎを調達できるという最適立地が「ぶんたこ」を生む産業環境にあったのです。この環境下で「ぶんたこ」のような和菓子に限らず、乾麺・醤油・酒・酢などの二次加工業も八百津には勃興しました。これで産業に必要な人・物・金の仮説は成り立ちます。しかし、消費ニーズに合わなければ
「ぶんたこ」は定着しません。ある資料では「九州の産炭地に銘菓あり」と言われております。厳しい労働に依る甘味への欲求、危険への高額な報酬と宵越しは持たない散財性質、経済活況に依る交流の手土産需要が要因と考えられております。まさに黒瀬湊は同じような産業環境の舟運船頭、川筋人足が居住しており
ました。先に述べましたが各務原の河野西入坊のすぐ南は川島の木曽川堤防道路であります。「ぶんたこ」はこの辺りで生まれ、その名称とともに舟運船頭、川筋人足が最初に運んできたのではないかと推察します。昔は八百津では数十件の和菓子屋・餅屋があったと聞きます。盛んに「ぶんたこ」を作り、需要にこたえたことでしょう。和菓子屋さんも減少し、人々も流出し遅きに失した感がありますが、このような歴史と伝統の「ぶんたこ」という絶滅危惧名称を私は残したいと思います。立派な栗きんとん(くりきん)の和菓子屋さんばかりですが春には「ぶんたこ」という絶滅危惧名称で製造販売されており、私は誇りに思います。

  • (有)亀喜総本家
    〒505-0301
    岐阜県加茂郡八百津町八百津3921-1
    水曜定休日/OPEN:AM8:00~PM6:30

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  • 緑屋老舗
    〒505-0301
    岐阜県加茂郡八百津町八百津4096-1
    水曜定休日/OPEN:AM8:00~PM6:30
    (季節によって多少前後します)
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令元年 5 月