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お茶煎りと五平餅作り体験

JAめぐみのツアーから、2019年11月29日(金)
八百津町山村エリアでの体験ツアーのお知らせです。
★岩平茶園で「お茶煎り体験で一休み」
★ 「山喜 (お食事・宴会・仕出し) 」での昼食
★杉原千畝記念館~しおなみ山野直売所で「五平餅作りとお買い物」
★八百津本通り商店街ぶらり街並み散策!

今まであまりなかった、八百津町山村エリアをツアーのベースとして盛り込んだお値打ちなコースです。紅葉も美しいこの時期に、八百津町山村エリアの食と文化と風景を楽しんでみませんか?
山の中の茶園。その中での「お茶煎り体験 」は、他ではなかなか体験できません。しおなみ山の直売所の週末の人気商品「ごへだ」作りは、つくるのも、食べるのも楽しみですね!

参加希望の方は、農協観光可児支店にお問い合わせください。
TEL:0574-62-1070
所在地:可児市広見5-93

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トライアル「コトを起こす」作戦会議

9月26日開催の「やおつ山村みらい塾」グループワーク「コトを起こす~トライアル作戦会議」では、70分以上に及ぶ話し合いの時間を持つことができ、ご参加いただいている皆さんの企画も形になってきました。
みなさんで作成した「行動計画」を、ふりかえってみると、たのしそうな企画ばかりで全部参加したくなってきてしまいます。
「やおつ山村みらい塾」は、しばらくの間、各チームの自主活動の期間に入りますので、次回までの期間が少し空きます。
また改めてお知らせさせていただきますが、次回会場に集まって開催の「やおつ山村みらい塾」は、

日程:11月26日(火)19:00~開催場所:八百津町防災センター2F

となります。

以下、各チームの活動の、決定している内容をまとめさせていただきました。
お試し開催など、具体的な日程・内容が決まっているものに関しては、紫色の文字で表記させていただいております。気になる内容・チームについてのお問い合わせなどにつきましても、事務局までご連絡いただければと思います。

①チーム名 「たのしみ隊」

  • プロジェクト名おいしくたのしみ隊
  • 目的・ねらい直売所へ買いに行きたくなる特産品開発
  • 実施時期11月中旬以降
  • 実施場所山の直売所
  • 活動内容商品開発
    ●開発商品「ドーナッツ(米粉・おから)」よもぎ・お茶・ハチミツ・栗・柿・「おにぎり」久田見あげ・茶めし・山菜五目・五平餅焼きおにぎり

チーム名 「わっさについて行く!」

  • プロジェクト名わっさについて行く
  • 目的・ねらいやおつの知らないところを知ろう
  • 実施時期12月上・中旬以降
  • 実施場所福地⇒いろどり村⇒篠原
  • 対象者やおつを知りたい人”安く行く”
  • 活動内容①バスに乗ろう(平日)②よっちゃん・ジローさんの行きたいところへ行こう!

五~六名でお試しツアー

〇実施日程 10/18(金)
〇実施時間  11:20発、15:50 
〇集合場所 ファミリーセンター福地終着下落合〜[約4キロ徒歩]いろどり村経由〜篠原発各自弁当、飲み物は持参。雨天決行。
このあと12月本格実施に向けて具体的な実施方法を検討します。
※お試し企画につき、一般参加の募集はしておりません。

③チーム名 「やろまいかクラブ」

  • プロジェクト名やろまいかクラブ
  • 目的・ねらい山村マップを歩きながら歴史を知る
  • 実施時期12月上旬以降
  • 実施場所久田見・福地
  • 対象者歴史好きの元気な方
  • 活動内容①岩平茶園~大平(分校)~小洞 5Kmコース・お茶の紹介・昔の通学路体験※おにぎりしょって!!・昔の物流進路紹介・川沿い(動物おるかも!!)
    ②旧福地小学校~工房とんぼ~白衣観音~緑華園~いろどり村 6Kmコース・お茶の紹介・工房でお土産を買おう・晴れたらツインタワーが見える!!(かも)

④チーム名 「OKクラブ」

  • プロジェクト名たき火プロジェクト
  • 目的・ねらいたたき火で人が集まる場所を作る/ぼーっとする(火を見積もることは、人の心を癒す効果があるそうです。)
  • 実施時期11月~12月上旬以降
  • 実施場所いろどりむら等 ( 場所を変えていろんなところで。)
  • 活動内容「たき火会」定期開催(場所を変えていろんな場所で)/燻製・揚物/新メニューの検討(虫パン・ジビエ料理※鹿の串カツ?)八百津の美味しい物を食べてみる

お試したき火会

〇実施日程 10/20(日)※当初予定の10/26(土)から変更になりました。
〇実施時間  10時頃からゆるゆると開始 
〇集合場所 周辺散策などもしながら、ゆるゆるとたき火をしながら時間を過ごします。基本、チームメンバーによるお試しの開催ですが、参加ご希望の方ご連絡ください。
※ぼーっとする時間が我慢ならない方の参加はご遠慮願います(笑)
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2019八百津散策合宿ご報告

合宿スケジュールや、各散策スポットの説明は
以下リンク先でご覧いただけます。
報告内容と合わせてご確認くださいませ。
2019八百津散策合宿スケジュール

2019年9月9日(月)~10日(火)の二日間。
岐阜大学・名古屋造形大学の学生さんに、八百津を知っていただくための『八百津散策合宿』を企画しました。
今年は散策ルートのベースを『「黒瀬街道」をたどる』としながら、八百津町の舟運で栄えた歴史や、八百津町下エリアと、山村エリアの海抜500mの高低差から生まれる食文化の違いを探りました。

昨年よりも、より八百津町山村エリアの大自然に触れていただく時間も多く取ることができ、充実な2日間を過ごすことができました。

オリエンテーション

本日町内をご案内いただく、町内からの有志の方々と学生さんご対面。
今年度の合宿の主旨についてお話しさせていただいた後は自己紹介タイム。
これから2日間、このメンバーで八百津町内を散策します。

錦織綱場

錦織綱場にて、舟運で栄えたやおつの歴史についてのお話を聞かせていただきました。事前に予習してきていた学生さんも!
看板には、要点をまとめた内容が簡潔にまとめてありますが、掘り下げて話を聞こうとすると、きっと1日では終わらない講義になってしまいます。

黒瀬湊

海に接していない八百津町は、錦織綱場・黒瀬湊を中心とする、木曽川を利用した水運と、黒瀬街道などの道を使った陸上交通を中心に発達していきました。
今年度の八百津散策のテーマの象徴となる場所です。

宝蔵寺/房姫桜

房姫桜のお話しの舞台となる宝蔵寺にお邪魔しました。
境内から、今の時期は青葉が綺麗な房姫桜が見えます。
徒歩で房姫桜の木の下まで散策。隠れインスタ映えスポット発見!でした。

久田見散策

久田見祭りの山車や、糸切からくりについてのお話を聞いた後は、町中を散策。
黒瀬湊の中継地点として、物資の配送などを行い栄えた街の今。
まちおこしがどのように進められているかなどを見学しました。

久田見浄水場~追分バス停

黒瀬街道が、元の道幅のまま現存している場所を徒歩で散策。
この場所は、 福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論 の舞台となった場所でもあります。
学生さんからの、「木陰に入るとこんなに涼しいんだ!」という感想が新鮮でした。

福地いろどりむら

まちおこしの活動が活発にすすめられる福地。
福地いろどりむら では現在水車小屋を建設中。
まちおこしを進める村の人たちの思いや、昔ながらの生活にふれました。

しおなみ山の直売所 中間報告&報告会

岐阜大学・名古屋造形大学で、授業の中で進めている企画の中間報告と、まちの人たちとの意見交換会を、八百津町役場 潮南出張所で行いました。
潮南エリアの方々を中心に、関心を持って集まってくださった方々と行ったGWでは、しおなみ山の直売所で販売する新たな特産品の可能性が広がりました。

合宿スケジュールや、各散策スポットの説明は
以下リンク先でご覧いただけます。
報告内容と合わせてご確認くださいませ。
2019八百津散策合宿スケジュール
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「よそもの」ご案内

8月末~9月上旬にかけて、淑徳大学、岐阜大学、名古屋造形大学と、八百津町内へ学生さんをご案内する機会がありました。

そんな中で感じたことが1つ。

外から来た方々で、住人よりも圧倒的に八百津に関する知識がない方々は、まずは案内された内容を「八百津はこういうところ」という認識をします。 私の話をちゃんと聞いてくれているなぁ、とうれしくなる半面、この案内をした人が私でなかったら、もっと違う印象を学生さんたちに与えることができたかもしれない。 良くも、悪くも、違う人間が案内すれば、その人目線の八百津がつたわるということなんだな…と少し怖くなり、 なるべく誤解無く、偏りのない情報を正しく伝わる伝え方ってどういう方法があるんだろうということを考えるきっかけになりました。

自分の思いもあるだけに、ついつい「わたしの八百津」を語ってしまいがちですが、八百津町内にもいろんな考えの方がいて、いろんな目線での八百津がある。 よそから来た人にも、その人なりの「八百津」を感じてほしい。

そういう場合、初めて来た方への短い時間内での案内はどうあるべきなんだろう?

八百津に移住して4年たった今、少しづつ自分の感覚が地元の方々寄りになってきてるのを良い変化と感じつつ、 次に来る「よそもの」達へ「よそもの」の先輩として伝えられるように、はじめて八百津に来た時の感覚も忘れないようにしていきたいと思いました。

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尾張領久田見と苗木領九カ村の山論

「山論」という言葉を辞書で調べると「江戸時代、入会林野の利害関係をめぐる、いくつかの村間の論争・紛議のこと。最終的には領主(または幕府)が裁決した。やまろん」となっている。

 古くの時代には、村や藩ごとの境界は、不明確きわまりない状況であった。中でも山林地内の境界は、地形が複雑であったり、人が容易に近づけない急峻な谷間があったり、展望のきかない山また山の中であったため、曖昧であった。

 「山論」を簡単に言えば、昔の村や藩の領地(境界)紛争である。福地と久田見(苗木藩と尾張藩)の境界紛争は、江戸時代の一六〇〇年も半ばころから、たびたび起こっていた。村の実力者や、村役による調停により、不満がありながらも口争いや小競り合い程度で、沈静化していた。

政権基盤が安定した江戸幕府は、元禄三(一六九〇)年、徹底した「検地」を実施した。そのころ、各藩の人たちは、村に定住するようになり、領(藩)主の統治が厳格化してきた。村を一つの単位とした、年貢制度(年貢が一村の全体責任で賦課することを中心とした)の確立は、村人にとって死活問題であった。一定の面積で最大の収量を上げ、年貢を納めるためには、田を肥やし、手入れを行きとどける必要があった。中でも、化学肥料がない時代、田を肥やすには、山野の木草(「刈干し」とも言った)が唯一の肥料となっていた。そのため木草の確保は、即収量の多寡を決定づけた。大量の木草を確保するには、相応の原野・山林面積を必要としたが、それまで自由に採草できた土地は、次第に自領の占有権を主張するようになり、紛争の種になってきた。

 福地と久田見の決定的な大山論は、文化十(一八一三)年犬地(現白川町)の杣が、村領内の倒木のケヤキを切り出していたのを、久田見の山見廻り役に見られ、大喧嘩となったのが発端である。この、ケヤキ事件があってからは、犬地村・福地村対、久田見村の山論が顕在化してきた。激怒した村人たちは、鎌・くわ・ナタ・竹槍などを持ち出すまでの争いとなり、多くのけが人も出るまでになった。

 こうしたなか、久田見村は、江戸の寺社奉行所へ提訴した。文政二(一八一九)年七月のことであった。訴えられたのは、犬地・福地の二カ村と二カ村を支援する上田・飯地・中野方・切井・黒川・赤河・蛭川の七カ村であった。

 山論の該当地であった福地・犬地の他に、なぜ七カ村が訴えられたかというと、久田見側が入会地と主張する、福地村の長曽川に架かる「長曽橋」(「長瀬橋」ともいう)に問題があった。この橋は、江戸への交通、年貢米の移送などをするために大切な橋で、福地の橋というよりも苗木藩の橋として位置づけられていた。このため、七カ村は、橋の保守点検や洪水で橋が流された際、再度、架橋するなどの賦役についていた。このことから、久田見は、福地・犬地と同様に紛争に対抗する同類の村と位置づけていたからである。

ケヤキ事件から提訴に至るまでに六年もたっているのは、その間に、地元で解決策を模索していたからである。何度も話し合いがされたものの、小競り合いは終わることがなく、ラチがあかないとして、久田見側が一方的に提訴したのである。その裏には、あくまで久田見の長年の主張を押し通そうとする考えと、久田見村は大藩の尾張藩(六〇万石)の配下であり、苗木藩は一万五百石程度の小藩であったことから、久田見村は苗木藩を侮り、尾張藩の権威力を見せつけようとする思惑があったとみられる。

 訴えを受けた江戸の寺社奉行所は、裁許のための当事者間の聞き取りをしたが、双方譲らず、なかなか結論が出せない状態であった。このことは江戸幕府の幕閣のあいだでも話題になり、尾張藩の後ろ楯を気にしながらの問題解決は、四年を要した。最終的には、笠松郡代(幕府の直轄地を支配する幕府の代官)の説得で、福地村の主張する境界が、文政六(一八二三)年に画定した。長期にわたる論争で、双方とも紛争疲れがあり、それが最終的な結論を引き出したとも言われている。

 決着までの四年間、双方の対応はすこぶる難儀であった。例えば、江戸で行われた事情聴取には、庄屋を始め、藩の役人などが江戸までたびたび出頭しなければならない。それに要する往復の日数と江戸滞在費用は、相当額にあがったであろう。また、決着までに江戸からの役人が出張し、四年間で四回に及ぶ現地調査をした。現地調査では、村人の出役を得て、食事接待、現地案内、宿舎の手配などをしたが、三回目の文政六(一八二三)年三月の現地調査は、神社奉行所の調査者二十四人が来村した。調査期間は実に七〇日間に及んだ。このときの出役人足は、苗木藩だけで、五千人を超えたという。久田見側でも同程度の人足が動員されたと思われる。

山論は、全国のあちこちで発生していたが、尾張藩領久田見村と苗木藩領九カ村の山論は、江戸幕府の幕閣の老中のあいだでも話題になっていたという。

 尾張藩久田見村と苗木藩犬地村・福地村の紛争の場所は、別図のとおりである。結論的には、福地・犬地村の主張通りの境界となった。すなわち、久田見村が自領と主張した茶碗、進退、清津、乱橋、押上、お追分、樽洞、伽藍谷、高木、伽藍、油草の西半分、小谷の西半分は、福地村の領地となった。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語08

宝蔵寺では檀家も多く法要から葬儀など和尚様一人では大変に忙しい。時々和尚様の都合もみて檀家へも赴く様になった。いつとなく檀家の皆さんより「よねさんに庵を作ってやったらどうか」の声があがり相談がまとまりて本堂の東隅あたりに庵を作るべく檀家より柱一本、萱一束と集め皆総出にて庵作り。よねは「私にそんなお金などありません」と云って断ると「そんな心配いらない。檀家で作ってあげるから。」との返事に只感動するばかり。正面には奈良徳行寺を出る時貰って来た観世音菩薩と丸い石を本尊にして宝蔵寺よりほかの佛具など貰って一応庵の形が整った。そしてその名も『慈草庵』と名付け尼寺として毎日の礼拝から宝蔵寺の和尚様のお手伝等葬儀、法要などそれなりに忙しい。檀家からも「慈草様」と言われて親しくお付き合いが出来た。檀家の皆さんの御親切、優しさで感涙にむせび一層佛道を邁進する。慈草庵開創と共に檀家の皆さんが寺の境内に一本の山桜を植えた。

 あれより二百五十年余り野黒藤山の寺の元屋敷。現在では幹廻り約十尺余、高さ約四十尺、悠々として今現在美しい花を咲かせて居る。

 或る夜、慈草様が寝て居ると深夜戸を開ける音がする。泥棒が入って来た。細目を開けて見ると何か物色をして居る。泥棒が私に危害でも加え様としたなら持参した短刀にて驚かしてやろうと布団の中で短刀が役に立たない事を祈っていた。庵には何も盗る物もなく出て行った。子供も大勢居て生活も苦しく物盗に入ったで有ろう。可愛そうにと思った。その後慈草様も高齢となり宝蔵寺の脇尼僧として約四十年、遂に六十二歳の天寿を全うしてこの世を去った。

 檀家の皆さんが寺の境内に亡骸を埋め五輪塔を建立した。俗名慈草庵浄心禅定尼と有る。時にして享和三年皆に惜しまれ乍ら藤山にねむる。誰が付けたか若い時の美しい尼さんで、その名を草姫様と今に云い継がれて居る。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語 07

奈良県東部地内では有るが六十六か所の寺廻りで有る。生まれて始めての経験で旅での情けに涙したときも有った。

 各寺々へ納荷をして十日程予定を遅れて徳行寺に帰依をする。和尚様は「大変だったで有ろう」とその労をねぎらって呉れた。また、旅立の前と同じようにお寺でのお手伝いをする。

 時にして“よね”は二十一歳の娘盛りと成りお化粧なくとも美しい。また一、二年が立ちて旅に出たいと思うようになりて和尚様に相談して見たら「若い時でなけねば行けぬので、その気が有れば行って来なさい」と励まされ今度は岐阜美濃方面を和尚様より指定されて東農方面を巡拝する事と成る。前回の経験も有りて何も心配はない。奈良東部と同じように巡れば良い。

約一ヶ月後奈良よい岐阜美濃まで大分歩いてきた。細目村より野黒村に来て善通寺(現連田)浄蓮寺(現上田)大日寺(現苦沢)と納経を終り大日寺の石に一休みして居て知らぬ間に春のポカポカ陽気に誘われてなく鴬の声にうとうとと眠ってしまった。でも深く眠った訳ではなく、道を通る人話し声もうっつら聞き乍眠って居る側を通る悪童達が「オーイこんなところに女のお寺様が寝ているぞ」などと声も聞くが、暫くして通りかかったのが宝蔵寺の和尚様。起こしてくれて「尼さんこれからどこへ」と尋ねられ「私は大般若経六百巻を各寺に納めて旅を廻って居る六部でございます。」和尚様は「今日は日暮れも近いし私の寺はすぐ近くですので一晩泊って行きなされ」と云ってよねを連れて寺へ案内した。「有難うございます。ぢゃ本堂の縁の下でも廊下でも構いません。雨露だけ凌げればいいですから是非お願い致します。」「いやいやそんなに遠慮する事はないから」と云って夕食後身の上話など夜の更ける迄聞いていただいた。

お寺の朝は早く、朝の太陽が杉の木立に明の筋を引いている。よねは、和尚様に「大変お世話に成ったお礼に一、二日位お寺のお手伝いをさせて下さい。と願い出た。「そうしてくだされば大助かりです。是非共お願いいたします。」と和尚様。奈良徳行寺と同じ禅宗寺とてお勤め前の掃除から供物など準備を終りて、朝のお経をよねも和尚様の後に据りて上手に上げるので和尚様は驚いた。和尚様は「貴方様の都合も有るだろうが暫くこの宝蔵寺に居てお手伝をして貰えないか」と云った。よねは「私には後二十巻程納礼をせなばなりませんのでそれ以後なら宜敷しいのですが」「そうか。ぢゃそれから頼みます」と云った。

よねは約一か月東農方面まで足を伸ばして、福地、汐見、飯地、恵那方面まで巡礼。やっと大任をはたした安堵感で宝蔵寺に無事たどり着いた。和尚様と約束した明日より寺にておお手伝いをすることと成った。

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~木曽川の舟運の歴史~

 木曽川は、全国有数の山林資源である木曽、裏木曽からの材木輸送に欠かせないものであり、その究明が大いに進められていることは周知の通りである。

 飛騨の山林資源も、南半は飛騨川、木曽川による輸送をもって活かされ得たといえるものであった。伊尾川、長良川も共に木材採運に果たした役割は大きい。

 また領主の収取する大量の本年貢、小物成が、三水系を利用して桑名へ運漕されるなど、その舟運は欠くことのできないものであった。

 この様な運材、廻米など領主経済に枢要なものとして整備、保護された河川水運の気候が、次第に発展してきた農民的商品の輸送も担い、遠隔地との流通に大きな役割を果たすに至った。それに伴い、領主の庇護を受ける特権的な水運機構に対する抗争が、農民的商品流通を背景として展開された。

 かかる問題について美濃三水系の水運について検討し、農民的商品流通についてみていきたい。

 木曽川水系においては、兼山湊と黒瀬湊の紛争があげられる。兼山は大斉藤大納言正義が築城して以来、木曽川上流の要地となった。天文8年の正義画像明叔讃に「船之往還市中之聚散」とあって、既に舟運の発達を示している。

 永禄8年には森三左衛門可成が入って、城下町として整備し、市も立てたようで町は賑わっていた。

 天正12年、秀吉は小牧、長久手の戦いに際し出水時の渡河に備えて、兼山から犬山間の舟を悉く寄せるよう森武蔵守可成に命じている。兼山には相当数の舟があったと思われる。

 慶長4年、森忠政が信濃国川中島に増封されて移動となり、犬山の石川備前守光吉に兼山の支配が移るにあたっては、兼山への掟書に「市の儀可爲如前々」と定め、前代以来の市を保護した。

 かかる兼山まちは、関ケ原戦後、家康一幕府の戈入地となり、元和元年尾張領に編入されたが、この地域の商業の中心として発展した。

 妻木雅楽頭直頼が、兼山のさぬきや堤勝以から桧鋸板等や茶を買い付け、岡田将監善同も、二郎右衛門から酒、きのこ、松茸、材木、板等を買い付けしており、明暦2年美濃国尾張領覚書には「1ヶ月に6度の市有」とあって六斎市が開かれていたことも知ることができる。

 兼山から積み出される船荷物には、兼山まちの喜佐衛門、下渡村の次郎左衛門戈市郎が立会で改め、役銀を徴収して喜左衛門から錦織役所へ納入し天和3年には舟1艘につき10文10銭が役銭にとして徴収されていた。

 塩問屋は塩を上せて後背地苗木領の山間の村々へ手広く販売し、塩役銀39文5分を上納した。

 そうして近世初期においては兼山は商業の中心として、舟運の発達もみられたようであるが、中期に至って次第に衰退に向かっていった。六斎市は享保年代に中絶して享保14年に再興を許されているが、以前の賑わいには戻らなかった。

 細目村の黒瀬は、木曽川遡行の終着地であり加茂、恵那、両群の山間村を後背地とし、次第に兼山に代わる発展を見せた。細目は木曽川西古道にあって、古くは交通の要所でもあった。

 室町期にはこの地域に市場のあったことが大仙寺文書によって確認され、武儀郡汾陽手寺も細目で樽200枚を買得している。

 天正18年に秀吉から木曽代官に任用され、木曽川、飛騨川の支配をも委ねられた石川光吉は、錦織、太田、麻生とともに細目は木曽材川下げに大きな役割を果たしたのである。

 舟運も次第に発達し、寛永12年には24~25艘の舟があり、領主である尾張藩家臣稲葉氏の名古屋屋敷へ年貢米をはじめ薪炭、竹木など諸物資を川下した。

 大脇、勝山の3艘、下古井の2艘に比べてはるかに多い。かつて栄えた兼山湊の4艘に対しても圧倒的に多いことは、当時衰退に向かいつつある兼山に対し、黒瀬湊が商業の中心地として、その地位を奪いつつあることを示している。「濃州徇行記」によれば、細目の本郷から黒瀬にかけて、タバコ、炭、薪、板類、糸、木綿、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などの承認が炭、黒瀬は139軒より家数が多く170軒あって町並みを形成し、白木問屋が2軒、商荷物問屋が2軒あった。

 木紙は細目村をはじめ苗木領、信濃から買い集め、岐阜、上有知へ販売し、尾張の丹羽郡、上軒、信濃、飛騨から繭を仕入れて糸にひき、関、岐阜へ送り、材木、白木、板類、薪炭も買って苗木領から名古屋、笠松、桑名へ運漕した。その他岩村藩の蔵米、小売米も川下げした。へたか船、ささ船、かみそり船などと称された10石積の鵜飼船の類であった。

 寛政11年には延3189艘が川を下り、細目役所が徴収する木類の端荷の役銀だけでも680匆に及んだ。船の上下日数を考えれば1日平均20艘前後の船が川を下ったのである。役銀は元禄7年から賦課されるようになり、享保4年庄屋家各務勘兵衛に、問屋宅を役場として業務を執らせ、13年に勘兵衛の特畑に役場を建てて細目役所とした。

 鍛冶屋炭、煽炭、紺屋炭、樫木、鋸板、割木など1艘分単位は錦織役所、諸荷物は細目役所で役銀を徴収した。10銭役は兼山と同様であった。

 元禄7年以降役銀が課され始めたのは、当時船運が盛んとなっていたからであり細目役所の設置もその反映である。

 こうした兼山村及び同舟運衰退と黒瀬湊の舟運の発展は、塩販売をめぐる紛争を惹起した。兼山村から小物成として塩役銀39匆5分を上納していることは先記の通りで、中世末、近世初頭から兼山湊の舟運よって加茂、恵那両群の山間地へ塩が運漕されていたが、黒瀬の舟運発展に伴って黒瀬を経て奥地へ運ばれる塩が増加していた。宝歴8年兼山の塩問屋山本藤九郎が、天正5年森武蔵守長可の認可による、その領内75,000石の塩問屋を主張して、黒瀬へ着ける塩1俵につき1升の塩の口徴収を藩へ請願した。兼山の塩問屋は初め久右衛門と久左衛門の両名であったが、その後藤九郎が久左衛門の株を買って出店。庄右衛門に塩問屋を営業させていた。藤九郎の提出した森長可の証文は紙質、筆も当時のものでなく、書式、文言ともに後年の手になるもので原本の写しとも言えないのであるが、藩は藤九郎の主張を容れて兼山より川上への登塩1俵につき1升の塩の口銭を藤九郎へ納入するよう命ずるに至った。

 この事態に、細目村、黒瀬の反対運動が展開されるのは必至であった。細目村商人惣代次郎九郎ほか13名、黒瀬船持惣代円三郎ほか8名、細目村惣代3名、庄屋各務勘兵衛が連盟して、

◇旧来より黒瀬の登塩には何ら障害がなかったこと

◇塩の口銭賦課によって塩の値段が高くなり、黒瀬の登塩にかわって加茂郡の山間地へは、飛騨川の麻生、米田辺りから塩が入り、恵那郡などの奥地へは中山道の下街道を経て中津川から塩が持ち込まれるようになっている。そのため兼山の収益も薄く、塩販売による山間地への取引減少で黒瀬の舟運も衰退している。そうなっては錦織湊の詰船役、船役銀などの負担も困難となること

◇黒瀬へ出荷して船積している薪炭その他の荷物について、兼山へ持通して船積するように久田見村などへ掛け合って、黒瀬の湊を潰そうとしていること

などを訴えて、新儀の塩の口銭廃止を懇願した。

 細目、黒瀬の商人は下流の笠松、円城寺などの問屋から、二季借り、あるいは薪炭その他山間村々から集荷した山荷物と交換する方式によって、塩を仕入れていたのであり、塩の口銭の新設に伴い塩販売の不利な立場に置かれることは山荷物の集荷の減少、舟運の衰退を招来するものであることは明らかである。久田見村を拠点とする加茂郡山間村と、奥筋恵那郡山間村を背景とする細目、黒瀬を中心に展開している商品流通に大きな阻止的要因となるものであった。

 藩は細目、黒瀬の商人、船持、さらに小駄賃持の者など加わっての請願を容れて、塩の口銭取りの新設を中止した。

 しかし享和元年兼山村の藤九郎は再度1俵につき1升の塩口銭徴収認可の嘆願に及んだ。細目村商人惣代20人、黒瀬船持惣代6人、組頭惣代3人、庄屋各務勘兵衛の30人は連判して、宝暦8年と同様の願書を提出し、久田見村百姓惣代4人、組頭惣代3人、庄屋平治も連名で連署し願書を提出した。久田見村の願書によれば、黒瀬から船揚された塩は苗木領30ヶ村、幕府直領3ヶ村、尾張藩40ヶ村余の村々に送られ、農間余業として1俵ずつ背負い販売している者も多く、久田見村には中継地として塩の販売、山荷の集荷を営む商人がいたことが解る。塩の販売先は北は加茂郡水戸野、和泉、小原、遠くは加子母、付知、川上の裏木曽3ヶ村にまで及んだ。山荷持は薪炭のほか、タバコ、こんにゃく芋、荏胡麻、楮などである。錦織地方役所は藤九郎の再度の嘆願を認めようとはしなかった。そのため、藤九郎は文政年間に塩問屋株を喜三郎に売却したが、喜三郎も天保5年にはその株を手放す有様であった。

 他に収益を求めざるを得なくなった藤九郎は、翌享和2年、兼山から大井、中津川、妻籠までの通し馬許可を出願した。兼山から塩を運び、信濃、東国から諸荷物を金山へ駄送し兼山から船積しようとする企画で、兼山における荷物問屋を兼ねたいと言うものであった。

 当時、伊奈街道、中山道を経て名古屋へ輸送されるものが多く、かつて信濃、東国の諸荷物を兼山経由で川下げしていた経路を再興しようと考えたのである。しかし商品流通路から隔てられた兼山は昔日に戻らなかった。

 寛政7年当時1,250石の酒造米高を有し、江戸或いは伊勢へ300~400石船積していた藤九郎の次男増四郎は、享和元年には仕込み僅か32石に激減し、文化5年には酒倉を売却して水車渡世となっている、山本藤九郎の衰退は、兼山の事態をよく示すものである。

 以上、木曽川の兼山湊と黒瀬湊を中心として、木曽川水系の舟運について史実に基づいて列記してみた。

 領主の城下町として、領主の手による市場、運輸機構が整えられた兼山町が、城下町の機能を喪失した後も東美濃の商品流通の拠点として重要な役割を果たしていたが、更に上流の黒瀬が恵那、加茂両群の広い山間地を後背地として繁栄し、その役割をとって代わろうとした。この両湊の興廃は塩販売をめぐる紛争を惹起しているが、一般的に川湊は後背地へ塩を供給する役割を有しており、山間地との商品流通に塩が需要な媒体をなしていることが知られる。

 農民的商品流通の発展にともなって起きた問題について、多少解明したとは言え、どの様な商品がどれ程の量で、どの時期にどの経路を経て、どこ迄運送されたか多くは詳かではない。舟運の機構についても、問屋の性格も究明すべき問題として残され、陸上運輸、特に脇道の商品流通との関連も追求する必要がある。今後これらについて、さらに多くの考察を加えなければと思われる。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道


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木曽川の舟運について ~木曽川舟運の終焉~

 近代に入っても、木曽川や飛騨川の舟運が果たしていた役割は、近世におけるそれと基本的には変わらなかった。飛騨川流域から出される物資の多くは下麻生湊に、恵那郡や加茂郡から出される物資の多くは黒瀬湊に、土岐郡から出される物資の多くは野市場湊や伏見湊に集められ、黒瀬湊や川合湊などの舟によって下流に運ばれていた。

 小山湊は飛騨川に浮かぶ小山観音の北側にあった。当時は今渡ダムがなかったため、飛騨川の水位は低く、川原には飛騨川が大きくくい込んでいる場所があった。ここが湊になって、長さ7間半、巾5尺5寸の大きさの舟が約80艘出入りしていた。

 大正から昭和の初期にかけては、小山湊の船頭たちは下麻生湊の物資を愛知県葉栗郡草井、中島郡起町に運んでいたという。船頭たちが運んだのは、薪炭や柴、カンメンである。船頭たちは、午前3時には小山湊を出発し、4時間程かかって下麻生湊まで上っていった。そして昼過ぎまでかかって、船に物資を積んだ。物資を積み終わると、舟は水面から3寸ほどしか出ていなかったそうだ。積み終わってから小山湊まで帰ってくると、午後2時から3時になっていた。この日はこれで終わり、下流に向けての出発は翌日の午前3時ごろであった。

 まだ暗いうちから大量の物資を積んだ船で、岩が所々突き出ている飛騨川や木曽川を下ることは、大きな危険を伴っていた。飛騨川や木曽川の様子を知り尽くした船頭ならではの芸当であった。

 送り先の問屋につき、物資を問屋の倉庫に運び込むと、もう夕方である。仕事が終わると船頭は舟に戻った。舟の中には、クドが備え付けられており、鍋やヤカンも持ち込まれていたので、食事の準備をすることが出来た。また、舟の中には寝具も持ち込まれていて、食事が終わると舟の中で寝ることも出来た。そして翌日の3時頃には小山湊に向けて、川を上り始めるのである。  舟には2人の船頭が乗り込んでいたが、目下の船頭は舟の先端に付けた長さ尺2寸ほどの細い麻縄を引っ張って川原を歩き、目上の船頭は舟の舵をとっていた。舟で小山湊に上がってくるとき、今渡や古井の問屋に依頼されて、わずかの手間賃を稼ぐため笠松の問屋から味噌やタマリを、起の問屋からは瓶を舟に積んで来ることがあった。しかし空の舟で上ってくることだけでも重労働であったため、一度に多くの物資を運ぶことは出来なかった。ふつうは味噌1樽を運んでくるのが精一杯であったが、働き盛りの船頭が二人金でいるときは、どうにか味噌2樽を運んできたという。

 耕地の少ない小山の人たちにとって、舟運が生活を支える大きな柱であった。そのため危険が伴う重労働とはいえ、船頭を続けざるを得なかったのである。

 だが昭和12年に飛騨川に川辺発電所が完成し、同14年に木曽川の今渡ダムが竣工されることになると、飛騨川と木曽川を舟で上り下りすることができなくなり舟運は姿を消していった。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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戦国武将の領国経営と湊

 戦国時代、織田信長の尾張平定や美濃攻略の事業にあたっては常に第一線に立ち、大きな戦功をあげたことによって烏峰城を与えられ、東農地方を支配することになった森三左衛門可成という武将がいた。

 後に可成の跡を継いだ森武蔵守長可は、城下町経営はもちろんのこと領国経営の一環として川湊を開設育成しようとした。史料には「船問屋福井治郎左衛門を金山下渡に移転させ、船問屋及び、船頭屋敷として1反4畝16歩の地を免租地とし、ここに船問屋、同倉庫、船頭屋敷等の建設を認めた」とある。このことから戦国時代末期にはすでに兼山湊が生まれていたということが分かる。

 慶長5年、森右近大夫忠政が川中島に国替になると兼山は城下町としての地位を失うことになった。しかし幸いにも当時は兼山湊が木曽川における遡航終点であったため、東農でただ一つの川湊として発展する可能性は残されていた。

 元和元年、兼山村が尾張藩領になると、兼山湊は船役銀(船1艘につき銭10文)を尾張藩に納めることになった。当初は尾張藩の役人が兼山に出張して兼山湊を飛騨川にあった下麻生湊と共に支配していたが、その後、兼山湊の船問屋治郎左衛門が兼山湊と下麻生湊の船役銀の取立てを代行することになった。その船役銀の総領が6,000両にも及んだというから、この二つの川湊の繁栄が伺える。

 東農地方の物資の集散地となった黒瀬湊は、寛永12年頃には24艘~25艘の舟があり、稲葉右近の名古屋屋敷に年貢米や、薪炭、竹木を運んでいたと言うから近世初期において既に木曽川上川筋の遡行終点として発揮しはじめていたことがわかる。

 その後、近世中期になると、「商家多くして繁昌なる湊なり、家数175戸(内四日市場8戸あり)男女654人、鵜飼舟60艘、白木問屋2戸、商人荷物問屋1戸あり、その外船乗り多し。この湊にて当初近村の商荷物は勿論の事苗木領より日々人の背負い出る荷物や牛馬荷物などを船積にして、木曽川を下し処々へ運送するに便利なる処なり。されば兼山辺りよりも港町並ににぎはしく見えたり。」とあるように、鵜飼船60艘で、近在の物資は勿論のこと、苗木領から出る物資を流送していた。当時の黒瀬湊は兼山湊をしのぐ賑わいを見せていたのである。

 黒瀬湊に隣接する蘆戸にも「小商いをする家多し 此の所は御役桴11ありて多く桴乗を渡世とす。又船かせぎもする也。黒瀬附の鵜飼船10艘あり」とあるように、黒瀬湊に集まる物資の流送に携わって生活する人々もいた。

 また黒瀬の本郷である細目村も近世中期になると、この本郷より黒瀬までの間で煙草、炭、薪、板類、糸、木紙、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などを商い、其の外萬物商も多かった。

 木紙は細目村を初め隣郷の苗木藩領、信濃辺りから買い寄せて、岐阜や上有地へ売り、糸蛹は尾州丹羽郡辺りならびに上州、信州、飛騨辺りより買い求め、細目村にて糸に引き、関・岐阜辺りへ送っていた。材木、白木、板類、炭、薪は苗木領近村などより買い寄せ、名古屋・笠松・桑名表へ送り、また塩は名古屋・四日市・桑名・笠松・北方・円城寺辺りより買い寄せ、隣村苗木領辺りへ売り捌いていたことが史料から分かる。細目村が、黒瀬湊の舟運を背景に東農地方における商品経済の一つの中心となっていたことが伺える。