「山論」という言葉を辞書で調べると「江戸時代、入会林野の利害関係をめぐる、いくつかの村間の論争・紛議のこと。最終的には領主(または幕府)が裁決した。やまろん」となっている。
古くの時代には、村や藩ごとの境界は、不明確きわまりない状況であった。中でも山林地内の境界は、地形が複雑であったり、人が容易に近づけない急峻な谷間があったり、展望のきかない山また山の中であったため、曖昧であった。
「山論」を簡単に言えば、昔の村や藩の領地(境界)紛争である。福地と久田見(苗木藩と尾張藩)の境界紛争は、江戸時代の一六〇〇年も半ばころから、たびたび起こっていた。村の実力者や、村役による調停により、不……more >>
宝蔵寺では檀家も多く法要から葬儀など和尚様一人では大変に忙しい。時々和尚様の都合もみて檀家へも赴く様になった。いつとなく檀家の皆さんより「よねさんに庵を作ってやったらどうか」の声があがり相談がまとまりて本堂の東隅あたりに庵を作るべく檀家より柱一本、萱一束と集め皆総出にて庵作り。よねは「私にそんなお金などありません」と云って断ると「そんな心配いらない。檀家で作ってあげるから。」との返事に只感動するばかり。正面には奈良徳行寺を出る時貰って来た観世音菩薩と丸い石を本尊にして宝蔵寺よりほかの佛具など貰って一応庵の形が整った。そしてその名も『慈草庵』と名付け尼寺として毎日の礼拝から宝蔵寺の和尚様のお手……more >>
奈良県東部地内では有るが六十六か所の寺廻りで有る。生まれて始めての経験で旅での情けに涙したときも有った。
各寺々へ納荷をして十日程予定を遅れて徳行寺に帰依をする。和尚様は「大変だったで有ろう」とその労をねぎらって呉れた。また、旅立の前と同じようにお寺でのお手伝いをする。
時にして“よね”は二十一歳の娘盛りと成りお化粧なくとも美しい。また一、二年が立ちて旅に出たいと思うようになりて和尚様に相談して見たら「若い時でなけねば行けぬので、その気が有れば行って来なさい」と励まされ今度は岐阜美濃方面を和尚様より指定されて東農方面を巡拝する事と成る。前回の経験も有りて何も心配はない。奈良東部と……more >>
木曽川は、全国有数の山林資源である木曽、裏木曽からの材木輸送に欠かせないものであり、その究明が大いに進められていることは周知の通りである。
飛騨の山林資源も、南半は飛騨川、木曽川による輸送をもって活かされ得たといえるものであった。伊尾川、長良川も共に木材採運に果たした役割は大きい。
また領主の収取する大量の本年貢、小物成が、三水系を利用して桑名へ運漕されるなど、その舟運は欠くことのできないものであった。
この様な運材、廻米など領主経済に枢要なものとして整備、保護された河川水運の気候が、次第に発展してきた農民的商品の輸送も担い、遠隔地との流通に大きな役割を果たすに至った。そ……more >>
近代に入っても、木曽川や飛騨川の舟運が果たしていた役割は、近世におけるそれと基本的には変わらなかった。飛騨川流域から出される物資の多くは下麻生湊に、恵那郡や加茂郡から出される物資の多くは黒瀬湊に、土岐郡から出される物資の多くは野市場湊や伏見湊に集められ、黒瀬湊や川合湊などの舟によって下流に運ばれていた。
小山湊は飛騨川に浮かぶ小山観音の北側にあった。当時は今渡ダムがなかったため、飛騨川の水位は低く、川原には飛騨川が大きくくい込んでいる場所があった。ここが湊になって、長さ7間半、巾5尺5寸の大きさの舟が約80艘出入りしていた。
大正から昭和の初期にかけては、小山湊の船頭たちは下麻……more >>
戦国時代、織田信長の尾張平定や美濃攻略の事業にあたっては常に第一線に立ち、大きな戦功をあげたことによって烏峰城を与えられ、東農地方を支配することになった森三左衛門可成という武将がいた。
後に可成の跡を継いだ森武蔵守長可は、城下町経営はもちろんのこと領国経営の一環として川湊を開設育成しようとした。史料には「船問屋福井治郎左衛門を金山下渡に移転させ、船問屋及び、船頭屋敷として1反4畝16歩の地を免租地とし、ここに船問屋、同倉庫、船頭屋敷等の建設を認めた」とある。このことから戦国時代末期にはすでに兼山湊が生まれていたということが分かる。
慶長5年、森右近大夫忠政が川中島に国替になると……more >>
かつて東農と飛騨南部の物資を大量に運搬するにあたっては、木曽川と飛騨川の舟運が重宝されていた。物資は人の背や牛馬によって川湊に集められ、舟で下流に運ばれた。舟運に関した木曽川と飛騨川の川湊には、黒瀬湊、兼山湊、下麻生湊、小山湊、川合湊、伏見湊、野市場湊、太田湊、大脇湊、勝山湊、笠松湊、起湊などがある。
これらの川湊をひとつひとつ見ていくと、各湊の成立時期は明らかではないが、木曽川と飛騨川の舟運において、それぞれの川湊が果たした役割が判明する。
古文書によれば、木曽川上川筋において最も早く開かれたものに大脇湊がある。土田の領主大塚治右衛門の家臣塚田庄衛門が「鵜飼船」と呼ばれる舟(……more >>
明治40年の記録によると、柿600貫を黒瀬から名古屋まで15円を支払い。塩1駄を笠松から黒瀬まで16銭支払い。
黒瀬船には運賃取りの船ばかりではなく、船主兼船頭が炭・薪などを仕入れて、犬山、笠松などで売りさばく商船もあった。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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大体、下り船は積載量460貫と言われ、上り船は100貫程度であった。ところが、上り船の場合は、名古屋、桑名から笠松までは1,000貫位積んだとも言われる。運搬物資は時期によって異なるが、黒瀬船を基準にして積荷物と着荷物の2つに分けて品物を列挙すると、
【積荷物】炭・おこし炭・加治屋炭・紺屋炭は船1艘・大俵64・小俵80・薪・割木・挽木類材木・桧曲物・小豆・蒟蒻芋・茶・生糸
【着荷物】青物・野菜・油・石油・生鯖・溜(たまり)・味噌・塩・砂 糖メリケン粉・豆・蜜柑・菓子・乾物・畳表・操綿・唐糸・太物・金物・荒物・古金・藍玉・小間物・陶器
明治16年の「木曽川筋出入船及物品」という……more >>
水の中に入る関係上、股引は用いない。冬は着物(袖口が鯉口といって筒袖)その上に半纏を着る。夏はふんどしに紐付きのシャツを用いる。船の手入れは充分にするが、水の藻がつくと重くなり、早く腐る恐れもあるので船底を時々藁で焼く。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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