木曽川は、全国有数の山林資源である木曽、裏木曽からの材木輸送に欠かせないものであり、その究明が大いに進められていることは周知の通りである。
飛騨の山林資源も、南半は飛騨川、木曽川による輸送をもって活かされ得たといえるものであった。伊尾川、長良川も共に木材採運に果たした役割は大きい。
また領主の収取する大量の本年貢、小物成が、三水系を利用して桑名へ運漕されるなど、その舟運は欠くことのできないものであった。
この様な運材、廻米など領主経済に枢要なものとして整備、保護された河川水運の気候が、次第に発展してきた農民的商品の輸送も担い、遠隔地との流通に大きな役割を果たすに至った。そ……more >>
近代に入っても、木曽川や飛騨川の舟運が果たしていた役割は、近世におけるそれと基本的には変わらなかった。飛騨川流域から出される物資の多くは下麻生湊に、恵那郡や加茂郡から出される物資の多くは黒瀬湊に、土岐郡から出される物資の多くは野市場湊や伏見湊に集められ、黒瀬湊や川合湊などの舟によって下流に運ばれていた。
小山湊は飛騨川に浮かぶ小山観音の北側にあった。当時は今渡ダムがなかったため、飛騨川の水位は低く、川原には飛騨川が大きくくい込んでいる場所があった。ここが湊になって、長さ7間半、巾5尺5寸の大きさの舟が約80艘出入りしていた。
大正から昭和の初期にかけては、小山湊の船頭たちは下麻……more >>
戦国時代、織田信長の尾張平定や美濃攻略の事業にあたっては常に第一線に立ち、大きな戦功をあげたことによって烏峰城を与えられ、東農地方を支配することになった森三左衛門可成という武将がいた。
後に可成の跡を継いだ森武蔵守長可は、城下町経営はもちろんのこと領国経営の一環として川湊を開設育成しようとした。史料には「船問屋福井治郎左衛門を金山下渡に移転させ、船問屋及び、船頭屋敷として1反4畝16歩の地を免租地とし、ここに船問屋、同倉庫、船頭屋敷等の建設を認めた」とある。このことから戦国時代末期にはすでに兼山湊が生まれていたということが分かる。
慶長5年、森右近大夫忠政が川中島に国替になると……more >>
かつて東農と飛騨南部の物資を大量に運搬するにあたっては、木曽川と飛騨川の舟運が重宝されていた。物資は人の背や牛馬によって川湊に集められ、舟で下流に運ばれた。舟運に関した木曽川と飛騨川の川湊には、黒瀬湊、兼山湊、下麻生湊、小山湊、川合湊、伏見湊、野市場湊、太田湊、大脇湊、勝山湊、笠松湊、起湊などがある。
これらの川湊をひとつひとつ見ていくと、各湊の成立時期は明らかではないが、木曽川と飛騨川の舟運において、それぞれの川湊が果たした役割が判明する。
古文書によれば、木曽川上川筋において最も早く開かれたものに大脇湊がある。土田の領主大塚治右衛門の家臣塚田庄衛門が「鵜飼船」と呼ばれる舟(……more >>
明治40年の記録によると、柿600貫を黒瀬から名古屋まで15円を支払い。塩1駄を笠松から黒瀬まで16銭支払い。
黒瀬船には運賃取りの船ばかりではなく、船主兼船頭が炭・薪などを仕入れて、犬山、笠松などで売りさばく商船もあった。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
more >>
大体、下り船は積載量460貫と言われ、上り船は100貫程度であった。ところが、上り船の場合は、名古屋、桑名から笠松までは1,000貫位積んだとも言われる。運搬物資は時期によって異なるが、黒瀬船を基準にして積荷物と着荷物の2つに分けて品物を列挙すると、
【積荷物】炭・おこし炭・加治屋炭・紺屋炭は船1艘・大俵64・小俵80・薪・割木・挽木類材木・桧曲物・小豆・蒟蒻芋・茶・生糸
【着荷物】青物・野菜・油・石油・生鯖・溜(たまり)・味噌・塩・砂 糖メリケン粉・豆・蜜柑・菓子・乾物・畳表・操綿・唐糸・太物・金物・荒物・古金・藍玉・小間物・陶器
明治16年の「木曽川筋出入船及物品」という……more >>
水の中に入る関係上、股引は用いない。冬は着物(袖口が鯉口といって筒袖)その上に半纏を着る。夏はふんどしに紐付きのシャツを用いる。船の手入れは充分にするが、水の藻がつくと重くなり、早く腐る恐れもあるので船底を時々藁で焼く。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
more >>
竹竿(3本内1本予備)長さ10尺と11尺。先に「とっこ」をつける櫂(かい)2丁、大は13尺、小は10尺かい縄(ろ)いち名、いのちづなとも言う櫓(ろ)1丁笠松から用うる帆には、帆柱15尺の丸太帆の上下につける竿帆幅8尺、長さ木綿でさしこ帆綱、麻縄で細く5丁尋、重量150匁
上りに使う。特に瀬の流れの早い処で水の中に入ったり、或いは向こう岸に泳いだり、また川原を「あしなか」と言う草履をはいてへさきに乗る若い者が腰をかがめて力一杯曳く
かりと蓋付箱で、この中に布団・蚊帳・衣類を入れるいどこ・甕を埋めて作ったくどで、炊事道具いとり、舟の中へ雨や水が入った場合かき出す道具船敷・船の底に敷くも……more >>
明治6年4月、50石未満の川舟で諸荷物運送あるいは漁撈等に使用する船に対して鑑札を給付するにあたっては、寸尺綿密に取調べて、5月10日までに与えることになっていた。その取調書がいまは残ってないため、古老の船頭から聞き取りしたものによる。
◇船を作る材は「くさまき」を用い、両脇に五寸幅位の桧を用いる。船板の厚仕上げ1寸から8分
◇船全長33尺(5間半)幅(最大幅)4尺、船底幅3尺2寸、深さ大体腰まで約3尺
◇船大工は古来から黒瀬に居り、明治21年頃、保岡野職人の日当は22銭が最高であったのに、船大工は25銭収入
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
……more >>
明治11年から18年まで船数80艘との記録が見られる。同20年4月の調査によると、小廻船79艘、その他9艘(免税船)あって、このころが最高であって次第に少なくなったと思われる。史料によって船の数をひろってみると、前述したように、寛永12年頃は24,5艘。延宝2年は55艘、寛保元年は60艘、天保9年は68艘と徳川時代にだんだんと増して明治に至ったのである。
寛保元年には黒瀬60艘とあって、木曽川筋の船着場には次のような数字がある。兼山4、川合15、下古井2、太田4、大脇3、取組4、勝山3艘とあり、如何に黒瀬に多くの船があったかわかる。これによって、徳川時代、細目村が物資の集散地であり、……more >>