黒瀬の町では、船の名称は持ち主のだれだれの船とは言っていたが、何々丸などの名称はなかった。船全体に対しての届出文書には、小廻船とあるが、この船は「鵜飼船」とも呼ばれ、下流の犬山―弥富の間では「へたか船」「黒瀬船」、名古屋では「おごさ船」「ささ船」「かみそり船」とも称したようである。当時名古屋白鳥に横付けできるのは「おごさ船」以外は許されなかったが、「黒瀬船」は「おごさ船」なみに取り扱われたとのことである。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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現在の八百津橋付近は、その昔橋が架かる前は渡場があり、この渡場の周囲が船着場であった。広い川原があり、川幅も狭く、直深で船積にも大層便利であって、川原には奥から運ばれたものや、下から陸揚された荷物が山積みとなっていた。この川原に享和頃から、長さ二間半、幅四寸ほどの制止杭が一本立てられ、その杭に「細目御役済渡場へ出置候 諸荷物何によらず荷主外乎差候者は、此の杭に縛付置役所へ相達し申候」とあって中々厳重のものであったという。しかし明治年代にはかかる悔いは見当たらなかったそうである。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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昔は船着場を湊と称し、「港」の字は使わなかった。黒瀬の木曽川の川岸を黒瀬湊と称している資料として、享和元年(1801年)の庄屋文書がある。その文書では「黒瀬之義湊し唱候義慥成義有之候哉御尋御座候、右者給人稲葉右近時時代より願書等にも書上来は只今までも名古屋御船方御役所へ黒瀬湊と書上来り申候外に申候外に慥成義当書上見不申候仍之御達申上候」とあり、同2月には庄屋から錦織方御役所へ差し出している。
ところがここに黒瀬から伊岐津志に至る渡船場が随分古くからあった。
「渡場」と言って、「湊」と言う者は無く役場の帳簿にも「川岸場」と書かれ「お湊」と称するのは錦織の綱場をさして称した。それが明……more >>
黒瀬湊といわれても、それがどこにあるのか知っている人は現在では少ないだろう。八百津生まれの60歳以上の者でも、みながそれをよく知っているわけではない。黒瀬湊の繁栄の面影どころか、その名前さえ何時の間にか消えうせてしまった。その旧跡は水底に沈み、その頃の船は写真でも明瞭に見ることが出来ない。
また、黒瀬の地名もかつては本郷(細目)、芦渡、鯉居、油皆洞、諸田、杣沢、北山、大梁、須賀と並び称せられたが、今は役場の文書にもなく、組分されて玉井町、本町、旭町、港町に分かれた。明治初年には上町、下町の二つに分けられた。
黒瀬並びに黒瀬湊に着いて書き記された文献については、寛政のころ尾張の儒学……more >>
この地方がいつから黒瀬湊、黒瀬街道を中心に発展を遂げて行ったか。苗木藩の南方中通11ヶ村(中野方村、毛呂窪村、姫栗村、河合村、飯地村、峰下立村、福地村、切井村、赤河村、犬地村、上田村)については記録のある限りでは次のとおりである。
天正11年(1583年)5月、兼山城主森武蔵守長可は豊臣秀吉の命により苗木城の遠山友忠とその子息友政を攻めた。この時の兼山から苗木に向かっての進軍方法は、森軍の本隊は中山道を進み、別動隊は兼山で木曽川を渡り、細目村から一部久田見村(稲葉方通領)を通り、福地村から一部飯地の枝郷塩見を通過、中野方村から蛭川村を経て高山村から日比野を経て、苗木城下への道程を経て……more >>
やぁ元気かい??
ワシは黒瀬街道で荷物の運搬をしていた、とめ吉じゃ。
今日は、ワシが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するぞ!
黒瀬街道は、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんじゃ。
ただのぉ、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんじゃ...
ワシは、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるぞ!それにね、距離を測りやすいように一里塚も設……more >>
やぁこんにちは!!
ボクは黒瀬街道で荷物運びをしていた、馬の馬吉です。
今日はね、ボクが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するね!
黒瀬街道はね、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんだよ。
ただね、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんだ...
ボクね、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるんだよ!それにね、距離を測りやすいように一里……more >>
福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットして……more >>
黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物……more >>
木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。
元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒……more >>