竹竿(3本内1本予備)長さ10尺と11尺。先に「とっこ」をつける櫂(かい)2丁、大は13尺、小は10尺かい縄(ろ)いち名、いのちづなとも言う櫓(ろ)1丁笠松から用うる帆には、帆柱15尺の丸太帆の上下につける竿帆幅8尺、長さ木綿でさしこ帆綱、麻縄で細く5丁尋、重量150匁
上りに使う。特に瀬の流れの早い処で水の中に入ったり、或いは向こう岸に泳いだり、また川原を「あしなか」と言う草履をはいてへさきに乗る若い者が腰をかがめて力一杯曳く
かりと蓋付箱で、この中に布団・蚊帳・衣類を入れるいどこ・甕を埋めて作ったくどで、炊事道具いとり、舟の中へ雨や水が入った場合かき出す道具船敷・船の底に敷くも……more >>
明治6年4月、50石未満の川舟で諸荷物運送あるいは漁撈等に使用する船に対して鑑札を給付するにあたっては、寸尺綿密に取調べて、5月10日までに与えることになっていた。その取調書がいまは残ってないため、古老の船頭から聞き取りしたものによる。
◇船を作る材は「くさまき」を用い、両脇に五寸幅位の桧を用いる。船板の厚仕上げ1寸から8分
◇船全長33尺(5間半)幅(最大幅)4尺、船底幅3尺2寸、深さ大体腰まで約3尺
◇船大工は古来から黒瀬に居り、明治21年頃、保岡野職人の日当は22銭が最高であったのに、船大工は25銭収入
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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明治11年から18年まで船数80艘との記録が見られる。同20年4月の調査によると、小廻船79艘、その他9艘(免税船)あって、このころが最高であって次第に少なくなったと思われる。史料によって船の数をひろってみると、前述したように、寛永12年頃は24,5艘。延宝2年は55艘、寛保元年は60艘、天保9年は68艘と徳川時代にだんだんと増して明治に至ったのである。
寛保元年には黒瀬60艘とあって、木曽川筋の船着場には次のような数字がある。兼山4、川合15、下古井2、太田4、大脇3、取組4、勝山3艘とあり、如何に黒瀬に多くの船があったかわかる。これによって、徳川時代、細目村が物資の集散地であり、……more >>
黒瀬の町では、船の名称は持ち主のだれだれの船とは言っていたが、何々丸などの名称はなかった。船全体に対しての届出文書には、小廻船とあるが、この船は「鵜飼船」とも呼ばれ、下流の犬山―弥富の間では「へたか船」「黒瀬船」、名古屋では「おごさ船」「ささ船」「かみそり船」とも称したようである。当時名古屋白鳥に横付けできるのは「おごさ船」以外は許されなかったが、「黒瀬船」は「おごさ船」なみに取り扱われたとのことである。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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現在の八百津橋付近は、その昔橋が架かる前は渡場があり、この渡場の周囲が船着場であった。広い川原があり、川幅も狭く、直深で船積にも大層便利であって、川原には奥から運ばれたものや、下から陸揚された荷物が山積みとなっていた。この川原に享和頃から、長さ二間半、幅四寸ほどの制止杭が一本立てられ、その杭に「細目御役済渡場へ出置候 諸荷物何によらず荷主外乎差候者は、此の杭に縛付置役所へ相達し申候」とあって中々厳重のものであったという。しかし明治年代にはかかる悔いは見当たらなかったそうである。
転載:柘植成實 著
黒瀬街道
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昔は船着場を湊と称し、「港」の字は使わなかった。黒瀬の木曽川の川岸を黒瀬湊と称している資料として、享和元年(1801年)の庄屋文書がある。その文書では「黒瀬之義湊し唱候義慥成義有之候哉御尋御座候、右者給人稲葉右近時時代より願書等にも書上来は只今までも名古屋御船方御役所へ黒瀬湊と書上来り申候外に申候外に慥成義当書上見不申候仍之御達申上候」とあり、同2月には庄屋から錦織方御役所へ差し出している。
ところがここに黒瀬から伊岐津志に至る渡船場が随分古くからあった。
「渡場」と言って、「湊」と言う者は無く役場の帳簿にも「川岸場」と書かれ「お湊」と称するのは錦織の綱場をさして称した。それが明……more >>
黒瀬湊といわれても、それがどこにあるのか知っている人は現在では少ないだろう。八百津生まれの60歳以上の者でも、みながそれをよく知っているわけではない。黒瀬湊の繁栄の面影どころか、その名前さえ何時の間にか消えうせてしまった。その旧跡は水底に沈み、その頃の船は写真でも明瞭に見ることが出来ない。
また、黒瀬の地名もかつては本郷(細目)、芦渡、鯉居、油皆洞、諸田、杣沢、北山、大梁、須賀と並び称せられたが、今は役場の文書にもなく、組分されて玉井町、本町、旭町、港町に分かれた。明治初年には上町、下町の二つに分けられた。
黒瀬並びに黒瀬湊に着いて書き記された文献については、寛政のころ尾張の儒学……more >>
この地方がいつから黒瀬湊、黒瀬街道を中心に発展を遂げて行ったか。苗木藩の南方中通11ヶ村(中野方村、毛呂窪村、姫栗村、河合村、飯地村、峰下立村、福地村、切井村、赤河村、犬地村、上田村)については記録のある限りでは次のとおりである。
天正11年(1583年)5月、兼山城主森武蔵守長可は豊臣秀吉の命により苗木城の遠山友忠とその子息友政を攻めた。この時の兼山から苗木に向かっての進軍方法は、森軍の本隊は中山道を進み、別動隊は兼山で木曽川を渡り、細目村から一部久田見村(稲葉方通領)を通り、福地村から一部飯地の枝郷塩見を通過、中野方村から蛭川村を経て高山村から日比野を経て、苗木城下への道程を経て……more >>
木曽山での林業労働者は、作業によって、「杣」「日用」に大別される。杣は産地での伐木・造材専業夫であるが、江戸中期の頃から「小杣」を分岐し、小杣はもっぱら造材を受持つようになった。運材専業夫の日用ももとは杣の兼業であったが、木材の彩運量が増すにつれて杣から日用が分化し、日用は木造りのすんだ材木の谷出し(山落し)から、小谷狩(木曽川本流までの運材)を経て木曽川本流を錦織綱場まで流送する「大川狩」までを担当するようになり、その頃から杣・日用共に、一人の組頭に統率される組織労働者としてそれぞれの作業に従った。木曽山で稼働する杣・日用の多くは王滝村を中心とする山間部の住人であったが杣組の中には裏木曽三……more >>
やぁ元気かい??
ワシは黒瀬街道で荷物の運搬をしていた、とめ吉じゃ。
今日は、ワシが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するぞ!
黒瀬街道は、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんじゃ。
ただのぉ、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんじゃ...
ワシは、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるぞ!それにね、距離を測りやすいように一里塚も設……more >>