宝蔵寺は奈良の徳行寺と同じく禅宗の寺でしたので、ヨネには要領がよくわかっていました。朝のお経もとても上手にあげて、和尚さまを驚かせました。「あなたの都合もあるだろうが、しばらくこの宝蔵寺にいて手伝いをしていただけないだろうか」和尚さまはヨネにそうもちかけました。
「まだ二十巻ほど納礼をしなければなりませんが、その後ならよろしゅうございます。」和尚さまはこれを聞いてたいそう喜びました。
ヨネは宝蔵寺を出て東農方面をめぐり、大任を果たして宝蔵寺まで無事に帰ってきました。その翌朝から手伝いをするようになりました。宝蔵寺は檀家も多く、法要や葬儀など、和尚さまは大変忙しいのでした。……more >>
黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物……more >>
福地村と久田見村による山論は、尾張藩の久田見村VS苗木藩の福地村、犬地村、上田、飯地、中野方、切井、黒川、赤河及び蛭川の9村連合であった。
山論の舞台は、福地、犬地両村の土地であったが、苗木藩の7村が加わったのは、福地村長曽にあった長曽橋(古くは「中瀬橋」と称した)が絡んでいた。長曽橋は黒瀬街道の長曽川に架橋された要衝であり、福地村庄屋・辻市左衛門正倚宅から約100mほど下流に位置し、現八百津町内で一番古い橋とされている。長曽橋がいつごろ架橋されたかを知る史料はないが、戦国時代の細目村黒瀬(現八百津町)から、この長曽を通り苗木の9村に通じていた。
架橋時期の一説には、1635(……more >>
福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。
神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。
ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。
裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文……more >>
福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。
幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。
福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗……more >>
木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。
元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒……more >>
「よね」は大日寺まで来た時に大きな石の上で一休みした。季節は春で、ポカポカした陽気の中にウグイスの声も聞こえ、そのうちついウトウトと眠ってしまった。
しばらくしてそこを通りかかったのが、宝蔵寺の和尚さまだった。「や、こんな所で尼さんが居眠りしているぞ。風邪をひいたらいかん」和尚さまは「よね」を起こした。
「私は大はんにゃ経六百巻を六十六ヵ所のお寺に納めてゆく六部でございます」「よね」がそう説明すると、「今日は日暮れも近い。私の寺はすぐ近くなので。一晩泊まっていきなさい」和尚様はそういって「よね」を寺に案内した。
「よね」は宝蔵寺で夕食をご馳走になった。その翌朝、「とてもお世……more >>
「よね」は長い旅のお勤めを立派に果たしました。六十六ヵ所のお寺めぐり、十日ほど予定を遅れて、無事に徳行寺に戻ってきました。和尚さまも村人たちもみな大変に喜び、「よね」の労をねぎらいました。
「よね」は以前のように和尚さまのお手伝いをするようになりました。二十一歳の娘盛りで、お化粧などしなくとも、十分に美しい娘でした。「よね」はしばらくしてまた旅に出ておつとめをしたいと願うようになりました。
和尚さまにそのことを打ち明けて相談しました。「若いときでないとできないことだ」と和尚さまは賛成し、今度は岐阜の美濃から東濃をめぐるおつとめになりました。「よね」は再び出発し、美濃の細め村から……more >>
あるとき和尚さまの所に「六部となって旅に出られる人はだれかいないか」という話がきました。六部とは、六はんにゃ経六百巻を六十六ヵ所のお寺に納めてゆく人のことです。六十日ほどかけてお寺をめぐってゆくそれはもう大変な仕事です。
和尚さまは悩みましたが、この仕事を、「よね」にやらせてみようと思いおました。話を聞いた「よね」はとても不安でしたが、引き受けることにしました。
和尚さまは喜び、観音さまの像と、美しく輝く石の玉をくれました。またお寺の檀家は、身を守るための短刀をくれました。「よね」はそれらを大事に身につけて、長い旅に出発しました。
引用:福地いろどりむら通信 21号掲載……more >>
「よね」は翌朝から人が変わったように熱心に働く子になりました。弟を背負ったままで境内の掃除をするのは、決して楽な仕事ではありません。それでも「よね」は落葉清掃などとても熱心にやるようになり、和尚さまを関心させる子になりました。
その後は和尚さまの毎日のお勤めの準備も手伝うようになりました。お経も毎日聞いているうちに、いつの間にか覚えてしまいました。
その後、数年がたちました。弟を背負わなくてもよいようになると、檀家の法要や葬儀にも和尚さまについていってお手伝いをするようになりました。
引用:福地いろどりむら通信 20号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房……more >>