八百津の歴史

舟運で栄えたやおつ

 東濃地域、美濃加茂と恵那の間の小さな町、八百津。ゆっくり時間の過ぎる、この町に、町と人を愛する思いがあふれています。
八百津の町の人と話していると、どの人も「人が好き」「八百津が好き」ということがすごくダイレクトに伝わってきます。

日本の真ん中に位置する岐阜県。
加茂郡八百津町は、その中濃地区に位置する人口がおよそ11,000人の小さな町です。

木曽川が町を東西に流れています。この木曽川の流れが、八百津の町を育ててきました。昔、まだ陸上交通が発達していなかった時代は、木曽(長野県)で切り出された材木を、この木曽川の流れに乗せて下流に運び、八百津周辺の川港で筏にして、桑名(三重県)や白鳥(名古屋市)まで流していました。
八百津という地名は、その川港がたくさんあったから、とも言われていますし、たくさんの物資が行き交う港があったから、だとも言われています。どちらにしても、八百津町の歴史を感じられる名前です。

房姫様物語⑤
「まんじゅうを食いたいのはよくわかるが」和尚さまはやさしい声で言いました。「仏さまのものを、黙って食ってはいかん。食いたければ、私にまんじゅうをくださいとなぜ言わなんだ。まして黙ってとったうえ、指でアンだけ食って、外の皮だけ仏さまにお供えするとはけしからん」 「よね」はがまんしてきた涙と声が一気にふきだし、大声で泣きました。「和尚さま、ごめんなさい。もう人のものには手をだしません」心からあやまりました。 「わかればいい」和尚さまはそう言って、仏さまにお供えしてあったウイロウをくれました。和尚さまの前で堂々と食べるウイロウは本当においしいウイロウでした。「よね」はうれしくて、おい……more >>

房姫様物語④
翌朝になりました。「よね」はいつものように弟を背負ってお寺に行きました。今朝は和尚さまはどんなお顔だろう。心配でなりませんでした。和尚さまは朝のお勤めの用意で忙しそうに掃除しておられました。昨日のまんじゅうはもうありませんでした。 お経が始まるとき、和尚さまが言いました。「よね、ここへ来て、私と一緒にお参りしなさい」「よね」は和尚さまの後に正座し、弟を背負ったまま小さな手を合わせました。いつ和尚さまのカミナリがおちるかと心配で心配で、朝のお勤めも上の空でした。 お経が終わると、和尚さまは静かに話しかけました。「よね、昨日のことだが、私の留守に仏さまのまんじゅうを黙って食べたのは……more >>

房姫様物語③
あまいアンをお腹いっぱい食べたものの、家に帰った「よね」はだんだん不安になってきました。こんなことをして、ほとけさまのバツが当たったらどうしよう。「よね」は心配で心配で、おふとんにもぐりこんでしまいました。 ばんごはんにも「よね」が起きてこないので、お母さんは心配になりました。「よね、どうしたの?」とお母さん。「お腹がいたい」と「よね」はウソをつきました。本当はお腹がいっぱいで、ばんごはんが入らないのでした。 お母さんは心配してオカユをつくり、「よね」のまくらもとに置きました。ところが「よね」がそれも食べないので、今度は煮つめたセンブリを持ってきました。「これを飲みなさい」セン……more >>

房姫様物語②
その日、徳行寺の和尚さまは外で用事があるらしく、昼前にお寺を出ていきました。「よね」はふと思いついた方法をどうしてもやってみたくなり、とうとうほとけさまのまんじゅうに手をのばしてしまいました。 お寺の階段に座り、饅頭に人差し指をつっこんで、中身のアンだけを上手にすくって食べてしまいました。背中の弟にもすくったアンを指で食べさせました。 すっかりアンを食べてしまうと、外側の白いところをそのまま残して、もとどおりの場所に戻しました。日も暮れかけたので、家に帰りました。 引用:福地いろどりむら通信 16号掲載 構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一……more >>

房姫様物語①
「よね」という名前の娘がいました。寛延元年(1748年)、奈良県柏村の貧しい家に生まれました。男3人、女4人の兄弟を持つ次女でした。 「貧乏人の子だくさん」と言われているとおり、生活は大変で、年上の子供たちは、家の手伝いや子守など、一生懸命に働きました。「よね」も12歳となり、弟たちの子守が毎日の仕事でした。 ある日、「よね」は幼い弟を背負い、近くにある徳行寺の境内で、子守をしていました。ふとほとけさまの祭壇を見ると、それはそれは大きな饅頭が、日と重ねしてお供えしてあります。 「よね」はそのまんじゅうが食べたくて食べたくて、つばを飲みながらあれこれ試案しました。なんとかう……more >>

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