錦織綱場と木曽の林業
杣のしごと
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録があります。この綱場が本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していました。
木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送されていました。
年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われました。
林業を生業とする人たちといえば「きこり」を思い浮かべますが、彼らは近世まで「杣 そま 」と呼ばれ、作業内容によって「杣」と「日雇」に大別されていました。
杣は産地で木の伐採と造材(伐採した木の枝と皮を山中で取り除き丸太に加工すること)が専業でした。江戸中期の頃からは造材の仕事が分かれ「小杣」がそれを受け持ちました。
日雇は造材された丸太の運搬業で、もとは杣の兼業でしたが、木材流通量が増えるとともに分業化され生まれた仕事です。
彼らは造材された木を谷へと運ぶ「谷出し(山落し)」、支流から本流まで運ぶ「小谷狩」を行い、木曽川本流を錦 にしこおり 織綱場まで流す「大川狩」までを受け持ちました。
杣は初夏の八十八夜(五月二日頃)に山入りして宿泊施設である山小屋を設営してから作業にかかり、秋分(九月二二日前後)頃にその年の伐木・造材作業を完了。
いっぽう日雇は併行して自らの手による様々な運材施設を利用し、山出し作業を行いました。
八百津山間部のふだんの山仕事は薪や炭作りが中心でしたが、畑仕事の少ない冬季は民間材を伐木・造材し、旅足川から木曽川に流す仕事をしていたそうです。今に残る「杣沢」という地名はそこに由来すると考えられています。
参考・引用 「木曽式伐木運材図会」
監修・解説 所三男 財団法人林野弘済会長野支