宝蔵寺の昔話 房姫様物語05
「お~よね」‥…「昨日、私の留守に佛様の饅頭を黙って喰ったのは、よねか」「はい」「饅頭を喰いたいのは解るが、佛様の物を黙って喰ってはいかん。喰いたければ私に饅頭を下さいと何故云わなんだ。まして黙ってとった上、指でアンだけ喰って外の側だけ佛様にお供えするとはけしからん」 よねは堪えて居た涙と声が一気に噴き出し堰を切ったように泣き出した。背中の弟も泣き出した。「和尚様ご免なさい」と一心に断り、「これからは絶対人の物に手を出しませんから許して下さい。」と懸命に断りやっと許しを得た。 和尚様は「解ればいい解ればいい」と云って佛様にお供えして有った”ういろ”を一個呉れた。 和尚様の前……more >>

宝蔵寺の昔話 房姫様物語04
饅頭でポンポコポンの腹に夕食など喰える筈もない。偽病も大変で有る。母は心配してお粥を作って来て「喰え」と言って置いて行ったがお粥などは喰う気にはならず布団をかぶって居ると「腹が痛くてお粥も喰えんでは」と言って今度はセンブリの煮詰めたものを呑めと云って寝床へ持ってきた。これは苦くて苦くて呑めるものではない。(センブリとはトウ薬のせんじた漢方薬で有る)昼は甘い饅頭を腹一杯、今夕は苦い苦い「トウヤク」のせんじ薬を、腹痛を演じた偽病も大変な大芝居で有る。 知らぬうちに寝て目が醒めたら朝になって居た。今日はまた和尚様がどんな顔をして怒るのか…心配でならない。今朝も弟を背負って寺へ行った。和尚……more >>

宝蔵寺の昔話 房姫様物語03
遂に佛様の饅頭によねの手が伸びた。この方法ならば和尚も知らないだろう。上重ねの一個を貰い、寺の階段に尻を据え、人差し指にて中味の"アン"を上手に穿って外側の白い皮を型がくずれぬ様に大きな饅頭を喰って背中の弟にも二、三回指で食べさせた。そして何食わぬ顔で外側の白い部分を佛様お供えしておいて元の位置に戻して日も暮れかけたので家へ帰った。 生まれて初めてこんな旨い物を腹一杯喰ったはいいが、佛様の罰が当たらねばいいがと心配に成って来た。明日は和尚様から大目玉が飛んで来るかも知れぬ。もう喰ってからではおそい。子供の腹に大きな饅頭のアンを腹一杯つめこんだので腹が張ってえらくて早々に布団に潜り込……more >>

宝蔵寺の昔話 房姫様物語02
今日もよねは弟を背負って寺の境内で遊んで居ました。ふと沸様の祭壇を見ると大きな饅頭が一重ね、お供えして有る。これを見たらよねは喰いたくて 喰いたくて 喉から生唾を呑んで、何とか上手に貰って食べられないかを勘考する。 今までこんな饅頭など喰ったことが無い。「こんな饅頭を腹一杯喰ったら旨かろうなぁ」 それ以外は何も思わない。今日は近くで葬式があるらしい。和尚様が寺を出るのは昼前の頃だろう。その時を見計らって 沸様の饅頭を貰うことにした。 でも和尚様に許可も無く貰ってもいいだろうか。和尚様は間もなく葬式に出ていった。黙って 沸様の物を貰えば盗人となる。でもこんな饅頭を喰ったことは……more >>

宝蔵寺の昔話 房姫様物語01
私は寛延元年(1748年)奈良県柏村の一山村の貧しい家の男三人、女四人の」京大を持つ次女に生まれ、その名を”よね”と申します。父母も子供を育てる為に朝早くより、夜おそく迄働いて居り”貧乏人の子沢山”故にその生活も大変でした。 大きい子供は家のお手伝いや子守など一生懸命にお手伝いをしました。私も十二歳に成り弟たちの子守が専門の仕事でした。今日も弟を背負って近くに有る禅宗寺の”徳行寺”にて子守をするのが日課で毎日が暮れておりました。 この徳行寺には五十歳位の和尚様が一人、寺の住職として寺を守り、時には人々の暮しの相談相手になったり手紙などの代筆を頼まれたり、それなりに忙しい和尚様で……more >>

錦織綱場
旧跡 錦織綱場
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。 この綱場が、本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していた。 木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送された。 年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。 ……more >>

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福地の水車小屋
福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットして……more >>

房姫様物語⑪
https://youtu.be/WDJODVqD4fc 檀家の人々はみな「よね」の働きぶりに関心し、「庵を建てたらどうだろう」と相談するようになりました。「よね」がそれを聞いて驚き、「私にはそんなお金はありません」と言って断ると、「そんな心配はいらない。檀家のみんなで建てるから」 檀家の人々は柱一本、ワラ一束と持ち寄って宝蔵寺の東隅に庵を建てました。正面には「よね」が奈良の徳行寺を出るときにもらってきた観音様を本尊とし、他の仏具は宝蔵寺よりもらってきた物で形を整えました。庵は「慈草庵」と名付けられ、近くに1本の山桜が植えられました。 「よね」は宝蔵寺脇の尼僧として働くように……more >>

房姫様物語⑩
宝蔵寺は奈良の徳行寺と同じく禅宗の寺でしたので、ヨネには要領がよくわかっていました。朝のお経もとても上手にあげて、和尚さまを驚かせました。「あなたの都合もあるだろうが、しばらくこの宝蔵寺にいて手伝いをしていただけないだろうか」和尚さまはヨネにそうもちかけました。 「まだ二十巻ほど納礼をしなければなりませんが、その後ならよろしゅうございます。」和尚さまはこれを聞いてたいそう喜びました。 ヨネは宝蔵寺を出て東農方面をめぐり、大任を果たして宝蔵寺まで無事に帰ってきました。その翌朝から手伝いをするようになりました。宝蔵寺は檀家も多く、法要や葬儀など、和尚さまは大変忙しいのでした。……more >>

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黒瀬街道とは
 黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物……more >>

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