御神木川下げの様子
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関税および使用料を取り立てていたという記録があります。
八百津町は、明治22年町村制の公布にともなって、それまで細目村と称していましたが、八百津町に改められました。
この時期に、近隣の和知・野上・牧野・上飯田が合併して和知村に、伊岐津志と錦織が合併して錦津村に、潮見・南戸・福地村が合併して潮南村になりましたが後に分かれ、潮南村と福地村になりました。久田見は上吉田と合併して久田見村になり、新しく歩み始めました。
その後、一部で分郷や編入がありましたが、このまま明治・大正を迎えます。昭和になって第2次世界大戦があり、終戦後の昭和21年新しい憲法が公布され、新しい自治体として出発しました。
昭和30年1月「町村合併促進法」の施行を機に、和知村を八百津町に編入、翌2月に錦津村と新設合併、昭和31年9月、潮南・久田見・福地村の全域を吸収合併して現在の八百津町になりました。
その時の町の面積は129.66平方キロメートル、人口20,219人でスタートしました。
八百津町山村エリアの歴史
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錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録があります。この綱場が本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していました。
木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送されていました。
年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われました。
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「さんろん」と読みます。
村や藩の 領地争いのことで、最終的には領 主か幕府が裁決していました 。
福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9ヵ村と尾張藩久田見村の領地紛争。
肥料や薪など、生活に必要な資源の調達場所として重要な山村。村境をめぐる争いは、江戸の神社奉行へ出訴するまでに発展しました。領民にとって死活問題にかかわるとして、互いに譲らず槍、刀を持ち出して争う者もいました。
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かつて八百津は、木曽川上流で伐採した木材を筏に組む要所であったのと同時に、様々な商品も交易されていた地でもありました。物資を川で運ぶことを「舟 しゅううん 運」と呼びます。山国の特産物は黒瀬街道を人馬に背負われ、中継地の久田見を経て、木曽川の黒瀬湊へと運ばれ、舟に積まれて下流各地へと送られていました。
下りの一艘に載せられる荷物量は四六〇貫(約一七二五㎏)で、炭、薪、氷、木材、コンニャク芋、お茶、生糸、雑穀などであったとされています。黒瀬街道は、八百津町の南を東西に流れる木曽川にあった黒瀬湊を起点に恵那へと至る昔の幹線道路です。